なんだか特に何もせずダラダラとして過ごす。夏休み。下着のサイズが変わってこれまで使ってたものが全部一気にキツイと感じられるようになってしまったのでネットでいっぺんに買い換えることに。一度知覚してしまうとまるで変わってしまうのが恐ろしい。ずっとこれで適切なのだ、と思ってきていたものが他者に指摘されることで簡単に覆ってしまう。まあなんとなく薄々はカップがあっていない気はあったと思うけど、でも正しさははるか昔から設定されており、そこから外れていることなんて一ミリも考えるスキがなかった。あるけれど、ない。なんて鈍感なんだ。

でもなあ、生理前とかでかなり体は変わるというのもあり、一定して適切なサイズというものはほぼ存在しないのだ、私の場合。そうゆう点で男性はこの変化を持っていないのかと思うとその大きな差異の壁に戸惑いを感じる。だし、なんか、イラっとする。まあしてもしょうがないんだけど。なんだよその体ってやつは。という怒りは結局自分自身に向けられているに過ぎない。

しかしまあかわいい下着はほんとかわいい。ここにおけるかわいいと言っているのはクールジャパン的なかわいいとは一線をかくしておきたいものがある。ここにはすでにかなり複雑なヴァリエーションとして枝分かれしたかわいいというものに値する。と言った感じ。

お昼にaちゃんと恵比寿で待ち合わす。チーズ料理の店に行ってラクレットなどを頼む。冷房が効きすぎててチーズが固まっていく速度を速めている気がする。お客さんはほとんど女性。途中、電気が消えたので誰か誕生日の人がいるのかな?と思うもなかなか何も始まらないので誰かがうっかり背中で電気をパチパチ消してしまって気づかないままでいるのかなと思ったらおもむろにハッピーバスデーソングが音響として流れてきた。ほっとする。が、一人の店員さんがデザート皿みたいなのを持って現れテーブルに置いただけで音もすぐにやんでしまい、なんとも中途半端な演出だった。やるならもっとちゃんとやればいいのに、もう少し盛り上げる工夫をすればいいのに、と思ってしまう。他のお客さんたちもなんともビミョーな後味だけ残される。

色々と話をする。私はもうすでに自分の中でまた一通りおさらいしてしまっていて収まり良く話せる状態になってしまっていたので、これっていいのかどうか?と自分で疑問に思うところがある。先週のこの世界の片隅にでボロボロ泣いたところでカタをつけてしまったような。作品で泣いたわけではないというところでまるで作品を利用して泣いたみたいなところが微妙に陳腐な感じがして嫌なのだが、でもそのように誘発してもらわないと自ら泣くことがもうできないのだ。年をとった。

でも、自分の中でだけでスッキリさせることと、人に話して宣言でもするかのように言う、といったものはまた違う。ある彼を好きであることには変わらないかもしれないけど、好きでいてもしょうがないし、よくないと思うし、それは無理やりな話ではなく、ムキになるのでもなく、クソみたいな下らなさとお別れするためにも私はほかに好きになる人を探したい、見つけたい、ということだ。決して恋愛がしたいといったことではない。そんな気力はそう言えばいつもない。楽しくありたい、したい、といった感じの方がまだ近い。恋愛というくくり、世界は私にはあまり合わないだろう。今までとは全然違うようなやり方で人を好きになり、ありたいような感じ。まあよくわからないんだけど。

ガーデンプレイスの方に移動して写美で展示でも見ようか?となるもベンチでひと休み、、のはずがそのまま喋り倒してなぜかこの真夏に日陰とは言え外のベンチで数時間過ごすという後から思えばなんだったのか、みたいなことになってそれはそれで面白みがあった。すぐそこに室内カフェはあるのに入らない、もうすっかりお金も持ってるのにまるでお金のなかった大学生の頃のようだなと思えた。ふたりとも顔テカテカになってたと思うんだけど、少しは風もあったしガーデンプレイスは人が多くないのでちょうどよかった。結局18時くらいまでいて解散。アトレを少しぶらついて帰宅した。

 

 

 

 

NHKで21時からこの世界の片隅にを放送するとのことでわたわたとシャワーを浴び、簡単なご飯を作り、とやっていたら結局最初の方は見逃してしまった。映画館で見たぶりだなあと思う。そうだ、池袋のサンシャインのすぐそばの映画館で見たっけ。仕事終わり?大きなスクリーンで、きっと水曜だった。見たときの感覚も次第に思い出されてきた。ああそうだそうだ、刺激がやってきたのだ。まるで皮膚に直接刺さるように、飛び跳ねて、向こうからやってきたのだ。

一体どのシーンだったかな、晴美さんのシーンでだったかな、もうそんなことも思い出せないけど、私はそこからなんだかずっとぼろぼろ泣いた。それは、引き金だったに過ぎない。映画の内容そのものに泣いていたわけではない。涙をそこで引きずり下ろされたのだ。もうずっとここ最近頭から離れない事、それを友達に話そうかどうしようか、ようやくやっとメールに書き記して送信した日だった。矛盾し、相反する事でしかあらわせない自分の気持ちについて、もう、認めないわけにはいかなかった。けれどそれを認めて毎日を、日々を過ごすことはできない。だからそれは適度に隠してごまかして嘘を混ぜこぜにしておかなければならない。けれど自分の本能は隠せない。だからぐちゃぐちゃだ。私はそれをならすことができない。それが全て映画によって引きずり出された。全く関係のないことだ。だが、それを見ている私の中で勝手に重ねつけてしまう。粘着性で、くっつけてしまう。その伸びしろを待っていた?その手を待っていた?なんで泣いているのかも、わかるけどわからない。わかりたくない。わかってはいけない。けれど今は泣くことが許されているのだと感じられた私は泣いてよかった。毎日泣くことはできない、昔のように。昔なら涙だっただろう。でも今はもう泣くことについて。涙はただ明日の瞼を重く腫らすだけだ。泣く私を手放してはいけないと思うのに、もういないのだ。それはほんのたまにしか身につけられない。泣くことは私にとっての安寧だ。泣くことを許されること、泣くことに包まれること。まるで懺悔だ。

あいちトリエンナーレの平和の少女像の撤去のこともつらい、いやだ、こんなの本当にいやだと思う。一体どうしたら、どうやって大きな声たちに対峙できるだろうか。おかしさはどんどん誇大化していく、膨らんでいく。シュリンゲンジーフならこんなとき何を言うんだろうな。何をするだろうかな。精神的にこたえてしまうのでツイッターもあまり見ないようと思うも次から次へとなんだそりゃな発言が出てくるので、気になってしまう。一体何が起こってるんだ。