液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

NHKで21時からこの世界の片隅にを放送するとのことでわたわたとシャワーを浴び、簡単なご飯を作り、とやっていたら結局最初の方は見逃してしまった。映画館で見たぶりだなあと思う。そうだ、池袋のサンシャインのすぐそばの映画館で見たっけ。仕事終わり?大きなスクリーンで、きっと水曜だった。見たときの感覚も次第に思い出されてきた。ああそうだそうだ、刺激がやってきたのだ。まるで皮膚に直接刺さるように、飛び跳ねて、向こうからやってきたのだ。

一体どのシーンだったかな、晴美さんのシーンでだったかな、もうそんなことも思い出せないけど、私はそこからなんだかずっとぼろぼろ泣いた。それは、引き金だったに過ぎない。映画の内容そのものに泣いていたわけではない。涙をそこで引きずり下ろされたのだ。もうずっとここ最近頭から離れない事、それを友達に話そうかどうしようか、ようやくやっとメールに書き記して送信した日だった。矛盾し、相反する事でしかあらわせない自分の気持ちについて、もう、認めないわけにはいかなかった。けれどそれを認めて毎日を、日々を過ごすことはできない。だからそれは適度に隠してごまかして嘘を混ぜこぜにしておかなければならない。けれど自分の本能は隠せない。だからぐちゃぐちゃだ。私はそれをならすことができない。それが全て映画によって引きずり出された。全く関係のないことだ。だが、それを見ている私の中で勝手に重ねつけてしまう。粘着性で、くっつけてしまう。その伸びしろを待っていた?その手を待っていた?なんで泣いているのかも、わかるけどわからない。わかりたくない。わかってはいけない。けれど今は泣くことが許されているのだと感じられた私は泣いてよかった。毎日泣くことはできない、昔のように。昔なら涙だっただろう。でも今はもう泣くことについて。涙はただ明日の瞼を重く腫らすだけだ。泣く私を手放してはいけないと思うのに、もういないのだ。それはほんのたまにしか身につけられない。泣くことは私にとっての安寧だ。泣くことを許されること、泣くことに包まれること。まるで懺悔だ。

あいちトリエンナーレの平和の少女像の撤去のこともつらい、いやだ、こんなの本当にいやだと思う。一体どうしたら、どうやって大きな声たちに対峙できるだろうか。おかしさはどんどん誇大化していく、膨らんでいく。シュリンゲンジーフならこんなとき何を言うんだろうな。何をするだろうかな。精神的にこたえてしまうのでツイッターもあまり見ないようと思うも次から次へとなんだそりゃな発言が出てくるので、気になってしまう。一体何が起こってるんだ。