こないだのジャズトゥナイトのローランド・カーク特集、きっと私の好きな曲は流れるはず、と思いつつ放送始まった時点で思わず公式サイトで先に流れる曲をチェックしてしまったんだがそれで安心して疲れた体はその曲かかる前に寝てしまったんだが63分過ぎくらいにかかっていた。

何年前か、5年前くらいになるのか、Emergency!のピットインのライブで前から2列目で見て聞いた溢れ出る涙がほんとまじ最高に素晴らしくてあのときに見た聞いた空気の震えは忘れられず思い出す。大友さんと斉藤さんのツインギターにひれ伏し息をのんだ喉の感覚さえ思い出す。人生ベストライブ鑑賞を授与したいんだ。

大友さんの記号の人ではなく記憶の人なのではないかみたいなお話おもしろい。私はジャズなんてわからん、聞けんと思いながら芳垣さんの演奏が見たいからという経由で触れるわけだけどそこでまずはじめに芳垣さんが演奏してて良いなと思ったのはオーネット・コールマンローランド・カークであった〜。

とにかくあのライブのときは聞き手として自分が曲と一体化するような感じがあって周りの全てが消失して自分はすべてに見て聞いて触れられたような感じがした。音がすべてなくなったときの粒子のノイズさえ見えてしまったようで。魔術的だった。忘れられなさすぎる。

記憶にむせかえっちゃうわなあ。

昨日もうこんな機会もないのかもともいう思いでBTSのオンラインライブを見た。10代の頃からメジャーカルチャーには距離とってきたような私でも好きになれるんだ…みたいな驚きは自分で思うし同時に私はこんな人たちを好きになったりしてもいいんだという思いに至れたことは驚きと安堵でもあるような。

この話は書こうとすると長い、し、うまく書けるかどうか微妙でもある。でもとにかく私はBTS を聞いている。ということが起こった。その説明。それでいてしかしイ・ランさんの歌を聞いたりエッセイを読んでいる私がいて、ひとつの国の中で全然違う表現をしている人たち、かたやあまりに馬鹿でかい世界、かたや自分が自分の属性を通じて親しみや共感やそれでいて尊敬を感じてしまう個人、それを自分ひとつの中で説明がつくのかどうか少し戸惑ってしまう。悪いことはしてないけど。でも、どうなの?って。誰に責められ問われているわけでもないけれど。

私に女性ならではの意見を求められていると聞いて、いやいやそんなのないでしょ、私に聞きたいなら私の意見を聞きたいで、それでいいじゃん、私に女性を期待したり押しつけたりしないでほしいというか、されたくない
 
 
 
 
 
 
 
私に女性ならではの意見を求められていると聞いて、いやいやそんなのないでしょ、私に聞きたいなら私の意見を聞きたいで、それでいいじゃん、私に女性を期待したり押しつけたりしないでほしいというか、されたくない
 
 
 
 
 
 
 

Aさんから銀行の人が私に女性ならではの意見を聞きたいとか言っていたと聞いて、いやいやそんなのないでしょ、私に聞きたいなら私の意見を聞きたいで、それでいいじゃん、私に女性を期待したり押しつけたりしないでほしいというか、されたくない。じゃあ男ならではの意見はなんなの?などと言う。

想像することのできなさをうけいれられなかった。

あの頃よりはよくなったでしょう?ずいぶんマシになったでしょう?あれもこれもそれも全部自分で稼いだお金で私が買ったんだ。そんなことがはふいに信じられないけど、でも、でもやったんだ。やってるんだ。そうだよそうやって今私は生きている。

だけど、それでも、だからって私は良くなったんだろうか。良い人間になれたか?時間が経って、そのあいだに私は成長をしたか?なにが変わったか?この違いにどれだけのものがあるか?私は良い人間になれていないじゃないか。あの頃に比べたら良くなった、こんなになった、こんな人になれた、変わった、ずいぶん変わった、全然違う、あの頃の苦しみをもう味わわなくていい、でも、それで今が幸せなのかと言えばそんなそとはない。自分は相変わらず汚く醜く自分勝手で自己嫌悪に陥る。そのことに耐えられない。

ときどき急に生きてく自信無くすというか、消え去っていくな。剥ぎ取られていくみたいに。それが、ない、って状態になるらしい。ぽろぽろ剥がれ落ちていってしまうんだな。そういえばもう随分長いことかさぶたを見ていない。子供の頃はよくできていた。