私がいつかどこかで夢描いていた幸せはないのだ。これまでに幸せになったことはなく、これからなることもない。だから自分に幸せというものはあまりに縁遠い。では幸せとは一体、どうであることを幸せと言い切るのかといえば、あまりにぼんやりしている。ただ私の前には現れないもの。現れるはずのないもの。それだけは確信というか直感というか。

 

連休3日間、どこにも出かけずただずっと家にいた。一度だけスーパーに買い物に行くのに外に出た。なんでだか全然なんもする気になれなくて、意欲も興味も沸き立てさせられず、それの前に不安と不安と不安と不安だらけにまみれてしまうのだった。7月までに払うアパートの更新料と手数料の合計金額が封筒できていて、それが10万近い。手数料5千円程度かと思っていたけど全然そんなことなかった。これに火災保険もか、と思うと気が沈まずにいられなくて、怖くて怖くて、もう私に一人暮らしなんて無理かも実家に帰るべきなのかもとさえ思った。とはいえ実家に帰るのはいくらなんでも無理、ない、とまたずっと部屋探しをするのだが、URの古い物件には風呂に換気扇がないとか、緑が多いから虫も多いとか読んでやっぱりそんなのは無理かもと落ち込み、その勇気がとにかくなくて、それで普通の賃貸で探すももう結構今より下っても家賃5万くらいでそれなりの物件というのは無理なのだとわかるだけ。ほしい広さ、トイレ風呂別、駅からの距離、普通に最低限暮らしたい環境、それで5万以下なんて完全に違う県に行かないとこれは無理なんだ。そして違う県に行くまでのことはいくらなんでも通勤的に無理ではないか。どうすればいいのかわからない。正解がわからない。自分がどう生きたらいいのかわからない。ほんとくそ。自分のこれまでの選択が結局くそに帰結する。どれも、これもそれも全部自分は愚かで間違っていた。夢見ていたんだ、こんな私でも、と思うと生ぬるい浅はかな生き方を頭の悪いどうしようもなさとして受け止めるしかない。お金のことでこんなにずっと息苦しくがんじがらめになって生きなきゃいけない日が来るなんて思ってもなかったんだ。そのことがまたバカでバカで仕方なくて。私のなにが間違っているのか、わからないんだ。正しさがわからない、ない。

 

また虚しくなる。早く死にたいと思う。思うに、昔よりそう思ったり思わなかったりする行き来の回数は増えたように思う。ただ、その都度の期間の長さや深さが短く浅くなってた、波形にしたらきっとそれがわかりやすく目に見えるのだろうくらいには変わった気がする。

最初はきっとそう大学生の時だったんだろうなあ、それはその以前までは友達といった感覚がよくわからなくて、誰に使っていいのか、どんな人をそう呼んでいいのかわからなかったから、それが少しわかるようになってしまって、そのせいだったのかもしれない。気づけば、自分は誰かの一番ではないということにつらさや苦しさを感じるようになっていた。自分が相手を好きで、好かれていたくて、少しは好かれていると分かっていても、でも、一番に、最も、大事に大切にされる存在ではない、ではない、ということにすごくすごく胸が締め付けられて苦しくて、そしてそんな自分がみっともなくて恥ずかしくて、そんなことを思う自分が痛々しくて馬鹿げていると罵りたくなりながらも噴水のように湧き出てくる自分の感情を見て見ぬふりすることはできず、むしろ、そのこんがらがるような矛盾に矛盾を重ねていくような自分自身とのやり取りにどんどん足をすくわれていくようだった。そしてそれは恋愛関係における異性相手に対して持つものではなかった。恋愛においての感情にも似たものはあると思うけど、なんかそれはまた別物だ。それは恋愛という枠、フィールドにおいてなされるもので、それがいかにも恋愛という囲いの世界の話で。恋愛じゃなくて、自分はこの人とならよく分かり合えるのかもしれない、という希望を特に抱いてしまった相手に、なんだろう。でも何かのタイミングで自分はその人にとって決してたった唯一の人ではないのだ、その最上位にいるのではないのだということを見てしまう、気づいてしまう。そのことに、なぜか私はとても強くショックを受けて、そしてああそうだよね、そうに決まってる、そんな当然なことを自覚もせずひとり自惚れていた自分に呆れて、白けて、自分をさげすむことで、自分の愚かさのせいにすることで感情の乱れを収拾し納得させようとする。そうゆうの、きっと良くないんだ。今ならわかる。そうやって自分の気持ちを別物で覆い隠してしまおうとすること。でも何回も何回も強く繰り返しその方法をとったから、私はやっぱりいまだにその方法にすがってしまうだろう。良くないことだ。分かってる。でも私は他の感情の処理の仕方を知らない。そんな幼いような言い訳をするしかない自分に怒りがたつ。壁を感じるだけ。誰かにとっての唯一の人になるなんてことをどうしてそんなに、心の奥底で望み期待している自分がいるのだろう。そんなことを思っていること自体は普段意識もしていないのに、そうではないと否定を感じたときになって初めて自分の望みや願いのようなものがあったんだということに直面して自分自身びっくりしてしまう。勝手に裏切られている。どうしてそんな期待をするの。そんなのありえないんだからしちゃダメだって何度も言い聞かせたはずなのに、それでもやっぱりこの人には私より大事な人が親しい人が好きだと言える人がいるんだなと悟ってしまうと、急激に距離が生まれ深い谷が造成される。身の程をわきまえていないと、と急に自分に言い聞かせる。誰だってそう、そんな人はいない、私が誰かにとっての唯一の人になるなんてないのだから、だから私は誰しもを疑る。良いような心地よいような嬉しくなるような言葉をかけてくる人を信じたりしてはいけない、それは自分が傷つくのを見越してのこと。全部疑え。全部嘘にだってなる。誰かが私を褒めるのならそれは間違いだ。信じない。自惚れてはいけない、それが大事。ずっとそんなふうに私は自分をコントロールするために、うまく自分を使いこなすために、そうゆう方法をとってきた。それでもって私ができ上がった。私らしい私像。でももうそれが最近はつらくて、わからなくなる。もうこんなのやめたいよって思う私がいる、出てきたんだ。けれどもう今更、今更やめられないじゃないか。他に何も知らないのに。もう今更、この年になって何を変えられるだろうか。変えられない自分がどんどん強くなっていくのを感じている。塞がっている。後戻りもできない。

 

 

 

 

 

 

 

親には自分を見せられない。

毎週末になると母から連絡が来るが毎週無視してまた来週。

良い子ども、娘になんてなってたまるかと思ってるけど、この、決定的な親に対する目つきの悪さは我ながらどう対処しようかほんとわからん。参考例があまりなくて。そもそも自分の状況がわかっていない。母も私をほっとくべきだと思うけどきっとそれはできないんだろうな。

 

上野の藝大美術館で「新しい成長」の提起 ポストコロナ社会を創造するアーツプロジェクトとかいう展示を見た。陳列館見にいくのと同じ気分で行ったけど、美術館の方だからスペースもちゃんとそれぞれにあって思っていたより断然良かった。遠藤さん百瀬さんの作品は年内だけでもたくさん展示されているのでは。しかしまあ女として、自分が女だから、づきんと突き刺される。

クロエ・ジャオ監督作品だからというだけで初めてマーベルの作品を、「エターナルズ」を見た。Aさんにマーベル作品について聞いてたらAさんも見たくなってきたというので、そして仕事がない、暇だということで平日午前中から見に行った。マ・ドンソクはわかるくらいのキャスト把握でいったらサウンド・オブ・メタルに出ててめっちゃキュートな人だなと思ってたローレン・リドロフに聖なる鹿殺しのバリー・コーガンも出てて良く見ることができた。こういった感じがスタンダードなシリーズ作品なのかなと思ったら今作で初めて、という描写も多いらしい。なんていうか、良いなとか、なんかわかるなとか、かなりすんなり入っていける世界であったのは、良い体験だったと思う。

 

あれこの話って書いたんだっけどうだったか、書き途中だったようなといろいろ探し回るも見たあらない、どうしたっけ。「サウンド・オブ・メタル」を見た時のこと。「サウンド・オブ・メタル」を見ながら16〜7の頃あまりにライブを見にいくことだけが信頼で楽しみで喜びだったし実際それしか知らなかったからか、もし耳が聞こえなくなったらどうするだろうというのをよく考えていた、そのことを思い出していた。ライブハウスでまぶしくステージを見ながら何度もよくそのことを思った。それだけが、それしかないという唯一になりすぎたとき喪失することも想定しないといられなくなる。でもいつもうまく想像できないと思った。わからないと思った。そのわからないという答えしか出せないことが苦しかった。ライブハウスの暗がりでそう苦悶していたことを思い出す。

主人公の立場と違えど耳が聞こえなくなるというのはどんな体験かということに関してこの作品は、わからない、想像できないと思っていた私にこのように理解することもできるというのを教えてくれて、10代の頃の自分の焦りや不安や恐れをいくらかやいくらかやすめてもいいのかもとほんのり思った。20年近く経って。

午前中、新宿でようやく「ドライブ・マイ・カー」を見た。見るために公開前に原作も読んでいたというのにそこから随分時間がたった。原作に随分肉付けされていて驚きつつ、何度も走りゆく車を追うカットがあったりひたすら会話する車内のシーンに驚いた。素朴な驚き。親密さが好きだったから接続してしまう。

西島秀俊は、え、こんな顔するんだ?まだこんな見たことない表情や声があったんだと思うと最後の方のシーンはなんだか信じがたかった。役者さんみんな顔と言葉の一致感みたいなのすごいけど。音楽は石橋英子さんって知ってたしわかってたはずだけど達久さんのドラムが流れてきたとき、あー達久さんの音だ!と思って、いつも同じこと言うようだけど弾き出された途端くっきりとした輪郭をもった音の粒がスクリーン上に飛び散っていくようで映像に音が重なっていくのを見たみたいだった。ああここで音楽が入るんだ、と安心した。会話すぎるから。車がほんと良かった。こんなに車を感じる映画、あったかな。

 

夜、jwaveで浅田彰さんのBTS講義、最後、もちろん応援したいと思うし少し羨ましくも思うみたいなこと言っててわかる〜ってなった。ONの話してる辺りから聞いたけどかっこかわいいという定義の東洋人男性像が広まり認知されていく説明のくだりがおもしろかったような。

あとでradikoで聞き返すつもりだけどいやほんとよくぞそこまでなんでも知ってるんかいとびっくりしたな。そして話されていることが一応それなりに理解できる、わかるくらいには私もBTSのことを知ったわけだなと思うとなんも知らん人でも見知ったらやはりそれなりに楽しいのではないかと思う。

でもやっぱりハードルはありそうだとも思うし。理解するのに時間かかるコンテンツだなとも感じるのがまたハードルで。 言及してたGrand Central Terminalで撮ったというON、mic dropにかけてstick dropですねと言ってたのがまた笑った。