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母がアスパラを分けてくれるというので仕事帰りに池袋で待ち合わす。先に着いたので三省堂で買いたかった本を買う。植本一子さんの新刊もめくるが、読み終えてない本をためるのも気になってしまうのでまだやめとく。それから靴売り場で合流して雨靴を探す。どれもサイズ感が難しい。そして歩き疲れそうなのも乗り気でない。値段も結構する。そしたらマーガレットハウエルでただの装飾もないスリッポンみたいなものが9000円で売っていた。色も黒でなく紺色があったので良い。商品券5千円に母もボロになった500円の商品券をくれて、残りはカード払いしてそれで3000円ちょっとになっていた。長靴はあるけどそれだと出番も限られる、ということでもう少し使い勝手の良いものが欲しかったのでとりあえず満足。アスパラのほか母が作ったらしきミニ玉ねぎ、紅茶の葉などをもらう。駅で良い塩を買おうと思うも良い塩が何なのかを私は知らない。ストウブの鍋で塩だけで調理するとか、パンを塩とオリーブオイルで食べる時とか、そうゆう時に使いたいって感じなので少量のもので沖縄の塩を買う。まあ、他の料理の時でも塩は良いものを使うべきなのかもしれないな。基本の味付けのところなのだから、塩が良ければ何でも良くはなりそう?ここのスーパーのレジの人々はいつだって誰だって丁寧さと明るさを失うことがなく、すごいなと思う。プロだなと思わされる。たとえそれがアルバイトやパートといった雇用形態だとしても、プロはプロ、といった仕事を真っ当に遂行する気高ささえその仕事ぶりから感じられる勢い。誰にでもできることではないと思う。

今週はまたこれから仕事が忙しくなりそう。量がありそう。土日どちらかは出なきゃいけないのかも。そんなことを思うと嫌で嫌で仕事なんかしたくないと思う。仕事なんかしないでいたら、一体何をするというのだろう。働いて、それがそのままお金になって、生活をしている。社長と自分しかいないから、それはあまりにも目によく見えている。自分が働かなきゃ、お金は得られないのだ。自営業やフリーランスの人たちはそれがよりもっと直結しているのだろうなあ。でもまあそれが分かりきっているから、働いているとも言えるのかもしれない。働かなければ、仕事がなければ、お金は得られず生活は立ち行かなくなる。働くことと、帰宅すること。一人暮らしの部屋に帰ってきて音楽を聞くと、なんとなくほっとする。ずっとこの時間が続けばいいのにと思う。見ていない映画を見て、読んでない本を知らない本を読み続けて、好きな音楽を繰り返し何度も聞いて、自分が着たい服を着てふれてみたい写真集のページを次から次へとめくりたい。でも自分にはそれらをやり遂げる知力も気力も愛情もないだろう。自分は死ぬまでにどれだけのものことを知り、愛せるだろうか。欲張ることはできないのに、欲張りたい自分がいる。その不均衡なバランスはいつかどうなってしまうんだろうか。

帰ってきて電気をつけないで窓を開け放って風が吹き込むのがとても好きだ。向こうのマンションにはいくつかの黄色いあかり。いつもだいたい同じ、その時間に明かりがついている家たち。知らない人たち。いつまでもそうしているわけにはいかない。鮭と残り野菜たちで南蛮漬けみたいなものを作ることにしていた。美味しくできた。美味しい料理を作ろうとすることは365日できることではないが、100日くらいはそうできたらエライ気がする。それにトマトサラダを作ったのでビネガー取りすぎではある。酢を好きすぎている。体はやらかい。やらかいのは便利なはずだ。

空気公団の山崎さんが新しいバンドを組んだらしい。3人の女性で。それは一体どんなものなんだろうなあ。空気公団はどうなるんだろうなあ。今月ライブを見に行くのでソワソワと楽しみにしている。山崎さんの声はすごすぎて、うそかほんとか、一度聞いただけでは実感のようなものが頼りない。そのまえに明日はヴィンセントアトミクスだなー。

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朝から疲れが取れてないのがわかる。疲れ?はいつからどこからやったきたのかわからないけれど。

仕事もひと段落したので買い物してはやめに帰宅。トイレの日よけ対策などして、日記書いて、眠いと思って横になって起きたら24時前だった。5時間くらい寝てたことになる。そして寝てたのに体は疲れている。なんだこれ。せっかく買ってきた刺身…。もうこんな時間では食べる気もしない。なんだよいったい、何がしたかったんだよと思うとぐずぐずしてなかなか風呂に入る気にもならない。テレビもおもしろくない。最近ふいにレコードプレーヤーが欲しいというかレコードで音源を聞きたい気がしたりする。いやしかしプレーヤーを置く場所もないだろう。床ならあるが。まあそんなにたくさんレコードを買うとかにはならないだろうし、安いものを買うなら良いのか、も。

なんとかお風呂に入って寝るとする。2時過ぎ。なにがしたいんだかわからない夜。そういえばようやく刺しゅうを仕上げた。早速次のものも取り掛かろう。

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本当は美術館に行こうと思っていたが疲れがひどいので無理だと判断する。色々いってないものが多く、終わってしまうだろう。どれかを行き、行かない、という選択と判断。どれでも良い気もする。

親が車でベッドシートを持ってくる。思ってたより来るのが遅いのでお腹がすきすぎる。パスタを食べに行く。やはり疲れがひどい。少しだけ読み始めてたミヤギフトシさんのディスタントを読み進める。おもしろい。このように、書かれるものがあるのだなあ。ミヤギさんの写真や映像作品から流れてくるのと共通した匂い、風や静けさや湿り気が同じように小説にもあるので驚く。そのようなことが可能であるということに驚いている。面白くてワクワクするが、この面白さは一体なんなのか、どういうことなのか、と不思議がる。

夜ご飯も簡単に済ます。少しずつ見ていた黒澤明の天国と地獄を見終える。山崎力はやはり若い頃から背中や肩のゴツゴツした感じがかっこいいな。黒澤明の映画はあまり見ていないので不思議も多いが見やすかった。

 

そういえば今週、自分は誰かのために何かをするなんてことは今までにしたことがないんだなあと気づいた。や、それは知っていたような気がするけど、それをひっくり返した形で、つまり自分は自分のためだけにしているのだという裏返した認識はあった。でも裏返ればつまり他者のためにはしない、ということになる。それは、自分なんかにはそんなことはできない、してはいけないという思いからのものだ。自分なんかが、という精神。自分なんかが、だれかのためになんて思うのはおこがましく身分にあわないので許されないことだ。だから最初からそんなことを想定してはならない。常なる自己否定がないと私は安心もできず何かをすることができないようだ。それはずっとずっと自分にまとわりついていてもはやそれが自己を保っている気はする。そう定義しないことにはひとに自分を見せることはできず、それによって自分を守っている。

よって、そうではないひとが羨ましく思える。なぜそんなことができるのか、不思議で奇妙で気持ち悪くさえ思えることがある。育ちが違うのだろうか。見えるものが違うのか。羨ましく思うことさえどこか恥ずかしく、自分が惨めになってしまうので、そんなことはない、それを担保するためにはやはり自分なんか、という支えを必要としてしまう。大陸から切り離されたこぶのような気持ちになる。

なぜ私にはできないんだろう。できるのか?できないのは、しないからだ。この、しない、と、できないの壁は複雑にいくつもの異なる素材で出来上がっていそうだ。一つの道具では終われそうにない。混ざり合わない。

なぜこんなことに気づいたんだったか、確か、タイムラインで流れてきたツイートを見たせいだと思う。気づかされた。自分は寂しい人間だろうか。それは誰かに判断されることだろうか。そもそもそこに他者を存在させようとするか、しないのか、それは自分の判断だろう。果たして、人間には種類があるのか?種という考え方は、どうなんだろうな。

朝からお腹は痛いので薬を飲んで様子見して昼過ぎに出かける。しかし洋服を選んでいたらなんかスカートがきつい。ゴムのないスカートの無慈悲さに打たれる。そんなに太ったのかと思うと深刻だ。スカートがない。新しいスカートがわたしには必要だ。また欲しいものがつくられようとしてる。もう嫌になったのでズボンにする。

まず有楽町に行って馬油を買う。北海道のショップでほんとはソーセージも買いたかったけどこのあと夜まで歩き回ることを考えるとあまりよくないので諦める。ギャラリー小柳の熊谷亜莉沙 Single Bed(黒バックに描きこまれる強烈な物語。うっとするような詰め込み。特に人物の艶やかな柄のシャツが描かれた作品がとても良かった)、POLAアネックスの束芋 透明な歪み(初の油絵らしい。しかしそれより陶器?で作られた小さな腕が自分には強烈に入り込んできた。インスタレーションの映像はジャンピエールレイノーの家みたいだった)、ガーディアンガーデンの横田大輔 Room.Pt.1(PVCに印刷、壁面に重ね吊るしてる作品が良かった。とことん写真というものを扱おうとしている。テキストが量多いのでまだ全然読んでない)と見て回る。途中で三越に入ってインスタで見てたブランドのイヤリングを買う。私にとっては少し背伸びしたお値段だ。店員さんの頭および顔の小ささがすごい。デパートは室内なのにキラキラとまばゆく影があるゆえに反射が強いかのような特殊空間だ。まぶしくて殺されそう。こうゆうときにカミュが浮かぶのは避けられない。シュウゴアーツでやってた米田知子さんの写真のことが強く印象に残っている、その影響の?カミュ。異邦人とペストしか読んでない、それは十分か、いや?

それから市ヶ谷〜飯田橋に移動予定が電車を乗り過ごしまくっていた、気付いた時にはもうおかしなことになっていた。こりゃやばい、ライブの時間からの逆さんが、計画が、総崩れ。しょうがないので市ヶ谷でミヅマギャラリーだけ見る。赤松音呂さんの新作、水が気化するときの熱を利用しているらしい。思ったより音数が少なくすこしさみしい感じも。というかそちらのさみしさの方が存在を感じられてしまい、この現状がほんとに望ましい状態なのかどうかなど気になってしまう。とはいえガチャガチャ音が鳴っていても違うだろうし。けれど、オブジェ?の近くで見聞きしようとするより、ふいに背中の向こうから音が鳴り出すときのほうが良いなとは思った。バリエーションがあるようでないようなのが一番気にかかったのかもしれない。

 

それから原宿VACANTへ。山本達久さんのソロライブ。達久さんを初めてみたのはじつは大阪のBRIDGEで、最後のFBIのときだったらしいが記憶にはない。FBIのメンツを今更ながら見返してみると、なかなかすごい。その当時は私もそんなに音楽に興味もなかったりしてて、即興がすごく好きとかでもないし、ただ毎年なにかおもしろいことがやってると思って行かなきゃならないと思っていた。今考えるとなかなか特異なものだなと思う。達久さんは2007年だとまだ山口にいたのだろうか。

またツイートからの引用で書く。これ、書くの結構手こずったのだ。なぜか、わからないが、やはりまだそんなによく知らないことについてはすらすらとは書けない、出てこないのだよなあ。書きたいこと、イメージはあるのにそれが自分のなかのこれっていう言葉に変換できない。文章として成り立たないというか。うっかり嘘みたいなどうでもいい言葉で書きそうになる。いやそんなこと書いてもしょうがない、と思ってじゃあなんなんだよとうんうんうなる。別に常に正解があるわけではなく、あくまでもその時の感じのことを書きたいだけで、そんなぼんやりをそのまま記したい。がたとえそう思ってても、これ(見たこと聞いたこと感じたことといった言いたいこと)をどう言えばいいのかがわからないとうんうん書いては消してを繰り返す。凡庸な言葉が良くないわけではないけど、なんとなく避けようとしてたりするかもしれない。それはよくない気がする。何が書きたいのかわからなくなりがちだ。なるべくそのまんまを書きたいだけなのに、そのまんま書くことはじつに難しいなと思う。と思いながら特別なものを書きたいわけではない、でも適当なことを書きたいわけでもない、あったままを書けばいい。しかしいつもに比べると淡々とした低い温度感のものが書かれた気がする。それはそれで自分にとって新鮮で面白い気がした。いつもながら拙く、機材や実際の正確な描写は知識がないのであやういものだ。そんなもの、本当はどこかに隠しておきたい気持ちもないことはない。けれどとりあえず今の今に記しておけばそれはいつか役立つかもしれない。記さないことと記すことでは全然違う。人の目にふれませんように、という願いをかけながらも人の目にふれる可能性にかけてもいる、それはずっと同じことをし続けている。

 

 

 

 

 

今日はちょろっと仕事やったら帰れる、昼過ぎとかには、そしたらギャラリー見に行ったりしようと思ってたのに結局仕事が増えててそれでも多少は明るいうちだったけど生理もきたしつまり体を重くなるし買い物もしたいし自転車の空気も入れないとで寄り道はせずに帰る。

そういえば納品で前の職場の会社に行った。男性陣には仕事上何度も最近でも顔を合わせているわけだが女性陣には長らく会っていなかったような。ってももともと少ないし、知らない人、いない人によって先輩だった年上の人ひとりだけだったが。もうひとり、私と同い年の同い年とは思えない偉そうで奇妙なプライドの高さをまき散らしていた人とその先輩だった人はつるんであり、在籍していた頃にはいやな気分にされたことも何度かあったが私とはあまりに全然違うんだなってことでどうでもよいといった感じでもあった。部署違ったし。悪い人ではないわけだが、特に慕えるものもなく好くものもなくなにということがない。なので挨拶ったって、してるんだかしてないんだか微妙なものだったので私もすぐさまどうでもいいか、となった。互いに興味もなにもないだろう。ずいぶん老けたように見えたのだけ印象的。下の階で男の先輩に会う、数日前にも会っているが。上で挨拶したのか聞かれ、しましたよ、とそれだけ他に特にないという感じで言ったら相変わらずやなとか言われてなにがなんだが全然わからない。そうゆう対応に私らしさがあるらしい。まったく理解しない。