朝起きたら9時だったので驚いた。2回目の目覚ましの記憶がない。9時まで寝ているというのは滅多にないことなのだが、今週は流石に疲れがたまったのだなあと思う。しかし11時半に待ち合わせをしているわけだから意外と時間がなく、朝ごはんは柿とコーヒーだけにした。錦糸町でaちゃん家族とお昼を食べる。もともとお土産を渡すだけだからという話だったが、夫のsくんも私に会いたいと言っているといういつもながらの謎展開により息子のyくんも連れてみんなでご飯になった。sくんも一緒に会うのは少し久々だったかも。aちゃんがsくんの発言をあれこれバラしてくるので、え、それを私がここで聞くのおかしくない?とたじろぎ思いつつsくんもバラされるのが決していやなわけでもなく、照れてるのかなんなのかは私にはよくわからないがなるほどそうゆう風に私のツイートが受け取られているのか?と興味深い。そんなによく会ってる訳ではないがsくんはわりと話が通じる時は早いし、話せば耳を傾け理解しようとしてくれている感じがあるのでわりと大学時代の男友だちの感じに似ている気はする。なによりaちゃんとsくんの会話のやり取りはちょっと特殊で異種な感じがあり、でもそれはそれでふたりのあいだでは自然でまっとうなものなんだろうなあとも受け取れる。正直言って、え、そんな話をする中に私がいていいの?と思ったりするんだけど、私だから良しとしてるのかなんなのか、ただあけすけな訳ではないが内密にしたプライベートでもないという感覚が面白いような気がする。

私自身はやはりもう一度も結婚をすることはないのかなと想像することができる。経験としてすることができるのであればしてみたいと思うが、自分のふるまいなどから想像するに、そうゆう縁はなさそうだなあというのが今のところ素直で率直な感触だ。結婚そのものがしたいというんでもなく、結婚という選択をともにする相手がいるのかいないのか、という話だと思う。自分は結婚というものを知らないままなら知らないまま、知らないというまま生きるだけだが知らない以上よくわからないものではある。なのでそうゆう意味では身近な人たちの結婚をして家庭をもった姿形というのは各種サンプルとしてとても興味深い。なるほどなあと新鮮だ。よく考えてみると、私の両親は私に結婚とはあまり良くないものである、ということを最も刷り込ませてくれたのだ。しかしその両親の像だけでがんじがらめにされているのも息苦しく、つまらない。陳腐だ。

とても楽しい時間だった。いろいろと喋って、聞いてもらえて、少しほっとする。話が通じて、安心した。それから恵比寿へ移動して写美で展示を見た。ああやっぱり写美は楽しい楽しいとただただ享受することで浮かれてしまう。帰りにアトレのスタバに行くも相変わらずぎゅうぎゅうに混んでいて、席を待つのも探すのもうんざりなのでテイクアウトして歩きながらカフェモカを飲んだ。ちょうどよく美味しい。

昨日までで怒涛の製作が終わり、また新たな製作はあるがひと息つくことが許されてほっとする。今後もこの調子、発注から納品まで日にちが少ないものが来るとライブの予定入れててもちょっと行きづらくていやだなあと思う。まあ最近はあまり行ってないから平気だけれど。

午前中、あさいさんのちょっとした一言でなんだかやる気が失われる。頑張って一生懸命やることが馬鹿みたいに思えてきちゃってどうでもよくなってしまう、もう何もできない生産性のついてこない人になりたくなる。こうゆうところは自分のだめなところだと思うが、自分がやろうとしていた気持ちがぽっきり折られてしまうと、あ、そうですか、と、ずざざざと波が引いていってしまうようだ。それを止められないこどもっぽさ。結局嫌な気持ちになるのは自分だ。もやもやが大きくなっていく。頭がどんどん重くなってきて、首のしわが増えていくようだ。全身しわだらけになり、しわだけになり、中身なんていつのまにかなくなっている。

 

あさいさんは夜現場があるので15時過ぎで会社はしまう。帰りに無印によって間仕切り用のカーテンやイデーのクッションカバーを買う。イデーで暮らしたい。幸せがありそう。洋服の売り場行ったらやけにサイズや色切れしてるものが多く良品週間の威力は改めてすごいと思う。本屋に行ってうろうろしてアダルトチルドレンや家族関係の本をいくつか見る。やはり、うわ、うちのことが書いてある!みたいなものを見にしてしまうとこわくてこわくて読みたいけれど読めない。果たしてこんなんでやっていけるんだろうか。自分がそれしか知らないこの育ってきた家庭は、それが当然だと思って、嫌だと思いながらそれしかないのだと思って従い、受け入れてきたが、やはりいくつものおかしさで構成されすぎているのだと思ったら恐ろしくて仕方なくなってしまった。そう、前々からいくつかおかしいのだとは思っていたが、おかしさなんてどこの家にもあるとおもっていた。でも、うちにあるおかしさは他の家にはないことも多々あるようなのだ。大学に入って他の人たちの話を聞くとどうもうちとは違う家庭はたくさんあるらしいことを知るがでもそれは各家庭すべて違うのだと思い、自分の家もそのひとつにすぎないからとおもってきた。他の家の話を聞いては羨ましいと思った。健全な家族、健全な子育て、明るい家庭、でもまあ私もなんとか生きているのだから、そこまでおかしな家ってわけでもないだろう。そう思うことは明るい希望で願いで祈りだっただろうか。それは良い肯定のはずだ。けれど、そう思うことは我慢でもあった。なんでもかんでもまっとうな理由づけを探して、ことばで抑え込む。自分で自分にそう課していた気がする。でも違うそうじゃないんだ、それじゃあ違うんだ。そのことはうまく言えない。子供の頃からずっと同じことが繰り返されている、子供の頃とまるで同じ気持ちにさせられているのはなぜか?そう気付いたとき、それがこの家の仕組みなのだと思った。ずっと自分で自分の存在が悪いのだと思ってきた。自分がこの世に生まれて、生き続けてきた過程のひとつひとつ総じてすべての悪の根源は自分の存在自体なのだと。生きてることそのものに悪が含まれていると。内面や精神の悪さがすべてを左右しているんだと。でもそこに同時に存在してきたどうもいやな気持ち、というのはなんだろうか、それは、無視できないものだ。そのいくつものいやな気持ち、それがあるから私は自分を悪いこどもだと位置づけてきたはずだ。いやな気持ち、というものを自分の中で対処するために。そう考えることは、悪いことだろうか、おかしいのか、異常なのか?でも、もう、自分でも自分のこのおかしさをどう扱っていいのかわからないのだ。まるでさっぱり私は自分がわからない、意味不明だと思ってしまう。なぜそんな思考を、行動をとるのか、手に負えない。それがいやだから、だから家のことを振り返らなければいけない。昔からあるACのワーク本をやるべきだと思うが、こわくてこわくてなかなか買えない。本屋で泣きそうになる。

今週は体調すぐれず疲労がたまる一方しかしちょうど仕事は立て込んできて、夕方から電車でつくばまで物を持っていかなくちゃいけなくなったりもして肉体がつらい。家に寝に帰るだけになるのってほんと働くだけしかしていない。そして土曜は午前中だけの現場を頼まれるもなんだかよく知らんが場所のダブルブッキングにより1時間もかからずに終わってしまう。デニーズでお昼を食べて東京駅まで送ってもらい、銀座でギャラリーを見て回る。疲れてるのでひとつ見たら十分かもと思いつつ良い展示を見ると頭が冴えてきてしまうのでむしろ麻痺して無理してしまうというか。天気があまりにもよくて、ああなんか久しぶりにこうして歩いているかもと思った。本屋行って花屋行って帰った。疲れたが少しすっきり。でももう今日はくたくたなのでしっかり掃除などして昼寝。そう言えばチェルノブイリを全話見終えた。むしろスターチャンネル無料の7日の期限を1日すぎてしまったので1ヶ月分払わなきゃいけなくなった。最後まで異様なこわさだった。でも終始あったのはこのドラマから受け取る、立ち上がる虚構なのにまるでリアルということだ。東さんが石牟礼さんの苦海浄土の話を出した時、ああそうかそうだそうだと思ったんだよなあ。あれは決して実際の聞き取りそのものじゃなくてフィクションだということ。石牟礼さんの綴ったものだということ。なのに、読んでいてするするとまるで話者が喋っているリアルとして受け止めてしまう。せっかくなのでまた少しずつ見ようか、しかしこわい。そんなこと言ったら何もこわく無くなるくらいに。

 

アダルトチルドレンについてもう一度よく探るべきではないかと思ったのは明らかにハワイに行ったことによる。まあでも不思議なもので、いつもこうゆう状況になった時には前々から薄々おかしいとは思っていたのだ、といった感覚がわき上がることだ。そう思うと普段の中で一体どれだけの物を見逃し、見過ごして、自分を適当にごまかしだましているのかということがわかる。でも、それを見極めるのは難しいことだとも思う。自然に思っていることなのか、無理に、意識的に思おうとしていることなのか、を、状況に関係なく判断できるような術は自分にはないだろう。自分の中で親に対する思いはもう片をつけたのだ、片をつけるのだ、といった思いに20代後半になっていた。リセットして、仕切り直しだと。これまでのことも水に流すような気持ちで。自分は親に求めすぎてはいけないし、見返りも期待してはいけない。介護を見据えるくらいの気持ちでいればいいのだと。でも、たとえ自分がそう思っても向こうが変わらないので自分の意思などいとも簡単に崩される。自分でもどこか家にコントロールされてしまうような窮屈さが嫌だとは思っていた。それは女であることが余計にそうさせる気がしたので男だったらきっと違うだろうと思った。ここにある複雑さを私は言葉にすることができない。圧倒的に、できない。あるのに、吐き出せない。それはなんだ、と思う。あまりにも積み重なりすぎていて、押しつぶされてしまっているから、それを取り出せない。そして今一番表層にあるのは嫌悪や軽蔑だ。それだけになってしまうのは自分にとっても棘であり重苦しい。嫌だ、嫌いだ、だけでは済ませられない。

そしてふと思ったのだ、私が対人関係において抱く心地悪さや奇妙に動く自分の心理はもしかしてこのことと関係があるのではないか、と。まあそれも前々からうっすらどこかでは思い描いていた気がする。決して初めて気づいたというわけではないが、確信を持つことはなかった。でも考えて見たらそうだろう。親との関係がまず築けてこなかった私が他者とそううまく繋がれるわけはない。というか、他者に対するおそれはそのまま親に対するおそれと同じだと、そう思えてしまったのだ。少し前から、私は小学生の頃には自分はできの悪い、親を喜ばせられないダメな子供なんだなと自覚し、中学生の頃には自分みたいな人間が子供を産んだりしたら大変だから産んじゃいけないんだろうと思っていたが、そうゆう思考はなぜ育まれなければいけなかったのか、そもそもそんな思考になっているのはちょっとおかしいよな?ということが気にかかっていた。そう思うようになったのは、その子供の頃の思想に自分はずっと支配され、その通りに生きることをまるで無意識に選びとっている、というか、そうしか選べなくなっているのではないかと気づいたからだ。子供のころに自分だけで見つけ、誰にも言わず、決めつけた思想はこれほどに自身に強く影響を与え続けているのかと、思わざるを得ない。こんなのは仮定に過ぎない。だが私にはこの仮定を信じようとするしかない。信じようとすることに、まず興味がある。

なのでまた本をいろいろ読んでみようかなと思いつつ、やはり、こわい気持ちもある。果たして自分一人でそれで何か掴めると言うのだろうか。けれど、そこを探らないことには自分はずっと同じように人に対して疑ぐりを持ち、断定を持ち、自分の満たされなさに言い訳をし続けて諦めで慰め続けなればいけないだろうと思う。そうゆうのはもううんざりだ。だからどうにかしなくてはならないのではないか、と思う。しかし険しい道だな。うーん、どうやろう。いやだなああ。とりあえず、たしかに病院でアダルトチルドレン診断を受けた日のことを日記に書いていたよな?と思って漁ったら確かにあった。そこにはもうすっかり忘れているようなことも多々書いてあり、助かる。しかしやはりその頃の日記を読むのは一番辛く、読みたくない。気持ち悪いから。うーん。アマゾンでアダルトチルドレンって検索かけるだけで既にこわい。タイトルがみんなこわい。笑ってしまう。そしてこわくて泣けてしまう。

生理前で体調が悪すぎてしんどい。体の不自由さ、いびつさが来てそれらが精神面も蝕んでいくし更に上回るように意識も肉体も朦朧としていくような。はやく死にたいと思うことだけが希望になってしまう。思えばずっと体調がだるくて最近は全然出かける気力がうすれ遠のいている。人生の三分の一は寝ててひと月の三分の一は体調が悪いなんてなんなんだよほんとくそだなって思うし気分も最悪で自己嫌悪ばかりがつむじを巻くように立ち上がり永遠にはやく死にたい時間に終わりを差し込みたい。死にたいと思わずに生きてる人がいたらすごいな。気持ち悪さのたねがどんどん発芽するばかり。前の晩や朝になって仕事休みたいけど休めないのもほんとつらい、いやだいやだと思う。自分はなぜこの仕事をしているのだろう。自分には何もできず、今していることしかできなかった。ばとぼとと肉の塊を落としている。