わ、あれ、10日くらい書いてないと思ってたけど、いやもう2週間になるのか。まあよく考えたら10日と14日は大して変わらないんだった。感覚としての10日と2週間はなんだかずいぶん遠いものだが。もう何日も前から、ああ日記を書かなくちゃ、というか、日記に書かなくちゃ、何日も書いてないってことを日記に書かなくちゃ、と思いながら、開くのが怖かった。臆病になってしまっていた。ずっと書いてなかったことへの後ろめたさ、ゆえに目を向けられないという自分のずるさ、知らないふり気づいてないふり見てないふりをし通してごまかそうとするいやらしさ、そんなものをひしひしと感じながらようやっと書かなくてはならないのだからという気になれた。なぜこんなにも日記に対して後ろめたさを感じているのか。日記に対して人格を見ているようだと思う。こうゆう気持ちは前々からあったけど、やっぱり高田渡さんのマイフレンドを読んでからより一層明確になったもののように思う。あーほんと今思い返してもおもしろかった。日記の参考書としてベストな気がする。この日記を読む誰かがいたとして、そんなの私には関係ないのだ。私と日記の関係がここにはある。

 

なんで日記が滞ったかといえば、部屋に出る、正確にはベランダに出る虫に耐えられなくなりノイローゼ気味になってまいってしまって精神的にやられ始めると出る症状ふたつ、止まらないげっぷと足のけいれんがひどくなって気も狂いそうになってきたから最低限の荷物を持って実家に避難してきた、のが、先週の木曜日、21日だったはずだ。その時にはもう引っ越そうということは決断して、実家にはimacも持って帰ってきて、それでそこからはひたすら部屋探しをしまくり、場所や家賃、条件等々で悩みに悩んで迷走したあげく、なんとかここならという物件を問い合わせるところまできた。でもそこは内見できるのが来月の半ばすぎということで、できるなら早く引越して今のとこを引き払いたいわけだがそうもいかなそうだ。でも他になかなか同程度の物件もないし、とはいえ実際内見した方が写真で見るより程度が下がるんだろうという不安もあるにはあるけど、贅沢はできないし、ここは焦らず探す方が賢明か、といった具合。平面図みすぎて飽き飽きだ。探してるのは主に1Kで、そんなのもうたいがい間取りなんて一緒なわけで、結局重要なのはそっからGoogle マップで場所や地域、方角を3Dも駆使して確認することなのだった。ああしかし思い出すと辛かった。久々にやばかった。死ぬかと思った。年取ると死ぬかと思うような、殺されるかと思うような機会がどんどん増えていくな。というか死にたいと思う気迫が高まったな。このまま自分は死ぬんじゃないかって、自分の衝動性に思わされるのだった。自分の存在の持続性のちっぽけさがよく目に見えた。現れた。げっぷが止まらなくなるのは時々あることで、これは呼吸がちゃんとできなくなってることによるのかなと思う。気持ち悪くて何かを吐き出さずにいられなくなるようでもある。足のけいれんもたまに軽くは出るけど、今回は強かった。おかげでものすごい筋肉痛になった。ふたつとも学生の頃から出るようになった症状とはいえ、久々にガツンと味わったこと、体験したことそのものへのショックもあったように思う。自分の脆弱さを露骨に自分の身体が持ってしまった。それは恥ずかしいというよりも、すごく真実味があって隠しようのない私なのだった。それに、身体はこんなにもこの動作を、げっぷやけいれんといった運動を記憶していることに驚き、圧倒された。私の身体、だが、私という意思は記憶しているとは思ってもいない、けれど私の身体は何も忘れていない、ただ収納されるようにしまわれていただけで、いつだってまた再び動き出すのを待っていた。それは鮮烈で美しいことのように感じ入る自分もどこかにいた。感動したのだ。私の意志ではない衝動が、暴動のように発動する。また同時に私の身体が私にあることを何よりも正確に証明した。生き物に取り憑かれるようだ。乗っ取られるような、それは懐かしくもあり快感もあり、しかし私は必死にそれに苦痛を感じ抵抗しようとしながら、でも陶酔感がもれなくついてくる。まるで夢のような時間だった、と今なら言えるが。

朝つけてたNHKでリモートワークに関する特集が流れはじめた。私はもうリモートワークというそれだけでうんざりして、音量をさげた。消さないのは7時半からの朝ドラを見る手前だったから…。もうリモートワークばっかりうるさい、と感じてしまうのだ。世間で労働してる人の一体何割がリモートワークしてるのか知らないけど、なんでそんなにリモートワークのことばかり取り上げるの?と思ってしまう。リモートワークなんてしてない、できない、そもそも仕事がなくなってる人たちはまるでいないかのような気持ちになる。リモートワークこそが新しい働き方、それこそ新しい生活様式としての代表格として持ち上げられているのだろうあり方に、なんだかもうイラッときてしまう。狭く小さい自分だと思うにいろんな形、状況で困ってる人たちや、新しい方法をはじめた人たちを取材した放送もしているとは思う。でもなんかみんなこうやって頑張ってます、みたいなのばっかりで、それもそれでなんかつらいのだ。頑張っていることがいいこと、えらいこと、協力しあうのっていいよね、もちろんそうだと思う、思うけど、そこに乗っかれない人たちはじゃあどうなるのと思う。

 

先週のジャズトゥナイトのこどもの日特集?で流れてた曲で好きだったミンガスの曲。好きになれる曲って、一発でわかるの、面白いなと思う。特にこの番組を聞くにあたっては流れてくる曲ほとんどを知らない状態で聞くから、自分がこれはいい!と反応できる曲とそうじゃない曲って露骨も露骨。自分にとってこうゆうビッグバンドで音がたくさん色々鳴ってるものに惹かれるときの感触って、やっぱり源流にDCPRGを感じるのだ。もちろん時代的にはDCPRGが後なわけだが、DCPRGからの遡りは気持ちが良いものがある。自分が聞いていたものが、聞いていたのはなんだったのかというところを突っ込まれてくるような感じとかある。私はきっとなんも意識していなかった。何も知らなかったから。こうゆう音楽があるんだという楽しさ、興奮でしかなかった。すごいバカっぽいんだけど、そのような話がありえたのが17だったということを今なら懐かしみ、皮肉も交えて笑うことが少しはできる。

 


The Shoes of The Fisherman's Wife Are Some Jive-Ass Slippers - C. Mingus Big Band

 

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またガーベラの種がとれた。ふわふわが、見ても見ても見あきない。こんなにたくさん集めてどうしよう、どうするつもりもない。最近はスマホのカメラを縦フレームで撮ることが快感で、横はものすごくつまらないような気になってしまう。野暮ったいっていうか。真上から撮るときはべつだが。感覚がずいぶん変わった。昨日の日記を午前中に書いた。いつも、うまく、思っていることが書けない。思っていることがまず言葉にできない。それらはもやもやもやもやしている。若い頃はどうしてあんなに毎日毎日苦しくて辛くてやまなかったんだろう。今は、どうして平気になってしまったんだろう。苦しむ気力がないように思える、それならそれで良いというものなのだろうか、それすら、わからない。若い頃、20代の頃と同じようにずっとずっとずーっと、あらゆることに自分の不出来さを感じ、何もないことに絶望し、自分だけが世界から取り残されたことに嗚咽するようなことが今はもうできない。その変化は何と名づけられようか。私はあの頃本当に自分が生きていることが許せず、解せなかった。自分が憎い、そのことしか考えられなかった。部屋の壁に、自分の体に死ねと何重にも書き殴らなければ生きていられないと、そうすれば自分が許されるんじゃないかって、何かにすがりたかった、それは誰か、誰かの許しが欲しかった頃。私は私を許してしまったのだろうか。それが生きる術だったとして、それは正しかっただろうか、必要だっただろうか。もう生きてる意味がわからない、ないからといって私は悲しまないのだ。なんて不感症になったんだろうと、34になってみたら、そんなこと思うなんて、なんてバカげてるんだろと思うし、そうかそうゆうことになるんだなと納得できるし、そんなもんなんだと虚しくなる。私なんてものはない。

新しい生活様式という言葉がなんだか気にくわない。っていうかしたり顔でそれを宣伝してくるNHKのニュースにいらっとする。今まで決して当然でなかった言葉を当然のように振りかざしてくるのはじつに暴力的な感じしてしまう。

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そういえばBSで録画しておいたケラリーノ・サンドロヴィッチ作、演出の「ドクター・ホフマンのサナトリウムカフカ第4の長編~」を見たんだった。昨年の11月、KAATでの公演の収録。冒頭にケラさんのインタビュー、主演の多部未華子瀬戸康史の対談の映像がすこし入っていたからそれで内容を知る。カフカの未発表作品が見つかったという現代、その作品の物語世界、そしてその作品を書いていた当時のカフカの時代、の3つの世界が並行して描かれているが次第にそれらはつながり絡み合う。延々とぐるぐるするようだ、というのはとことんカフカっぽい。セットやプロジェクションマッピングで階段が入り組んでいるのもまさにそう。読んだのが結構前だから記憶もぼんやりだけど、「城」なんかはまさにイメージに近い気がした。また登場人物たちのセリフや置かれる状況ひとつひとつの不条理さが当然のごとく積み重なっていく、それで成り立っている世界というのがカフカの作品世界をみょうに増幅させて迫られてくるような気になる。しかし失踪者や審判も読んでるはずだがちょっと内容忘れてる気がするな。実家にあると思う。繰り返される列車のシーンが印象的だ。多部未華子演じるカーヤという女性が多様な顔を持っているのがおもしろくて、女性性ひとつに縛られてはいないとは思う。自ら迷いこみにいくような勇ましさとにじみ出てしまうような可憐さ、率直に人を断罪できる野蛮さ、健気に恋人を思っているかと思いきや双子の弟との区別ができやしない愚かさ、よく一人の人物にこんなにつめ込むもんだなと思った。でもそれで成功しているとも思える。刺しゅうしながら見れた。

朝、窓にアリがいた。いやアリではないのではないか?とも思えてくる。よく見ようとすると。でもそんなの考えだすと気持ち悪くてしょうがないから追求しない。なんで一体どこから入ってくるんだ、と思って、もしかして床とベランダに出る窓の隙間なのでは?と思ってマスキングテープを貼った。最初に黄色ので貼って、その上から弱粘の白いのを貼った。その直後にまた1匹いたから絶望したけどその後結局見ることはなかった。ふさぐ前からいたのかどうか。

午後、dommune美術評論家連盟の放送を見た。なんか久々にまとまってアートの話を聞いた。頭がついていけないような心地悪さと、頭がかち割れるような気持ち良さがあった。そうゆうものだったなそういえば。

夜、ETV特集を見た。フィリピン人女性と日本人男性の間に生まれ、フィリピンで母親とともに暮らす子どもたちは成長して父親に認知を求めるが認知されるのは3割にすぎない。認知は20歳までに行われなければ日本国籍は取得できない。父親からの送金が途絶えたり、そもそも連絡が途絶えていたり、様々な理由や事情があるなか進学もできず働いても貧しい生活をせざるをえない。父親に会うために来日したのに一向に会うことを拒否し続ける父親、その間に亡くなってしまった母親、こんなことなら日本に来るんじゃなかった、この時間を母親に捧げればよかったと泣く女性の姿、彼女だけじゃない、子どもたちはみんな泣いていた。父親側の当事者として、後半でひとりの日本人男性が出てきたのでそんな人がいるんだと驚いたが、その人は現在では娘と交流を持っていた。その人は自らの行動を反省していた。多くの人は、きっとそれが簡単にはできないのだろう。ETV特集とかハートネットTVとか見ていると、この日本という国は決してひとつの純真な民族だけで成り立ってなんかいやしないんだということがよくわかってくる。そこには時代や国、その中にいるひとりひとりの日本人が他者を排除したり差別したり知らんぷりしてきたために誰かに重荷を背負わせてきているのだと思う。私たちのいまだ知らない他者がたくさんいるのだということに驚かされるし、そこに目を向けずに日本が日本人がと語るのはとても狭い了見に思えてならなくなってくる。

くるみのクッキーを作った。よくできた。

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出勤する。またちょっとした作りものだけ。あとはあさいさんが明日現場に行くからとそれの準備など。外の水道で穴の空いたバケツに水をためながらモップを洗う、という行為が茨城のおばあちゃん家を思い出させた。仕事がないのが標準になりすぎてしまう。これくらいが当たり前かのようで、自分が何をしている人なのかあやふやになっていく。それでも生きている人。作業しているとき、デザインカッターのおそらく側面で左手の親指を少し切ってしまった。仕事でカッターで指を切る、というのは恥ずかしいことだ、と思ってしまうのでそのとき絶対に声に出さないようにしている自分がいる。こっそりというかさりげなく、絆創膏をとって、ささっと貼ってしまう。痛いとか、切ったとか、何も発さない。ああ、切れたな、と思うところからがスタートで、そして最後まであさいさんにもバレなければセーフって感じの自己満足。そうだ、虫のことでイライラしていたんだった。イライラっていうか、落ち込んでいた。こんなことで乱れすぎる自分の愚かさにもげんなりする。そんなんだから切った。デザインカッターでもよく切れることに感心する。こんなことなら死んだほうがマシなくらいにげんなりしていた。それくらいにげんなりするのだった。虫嫌いのレベルが半端ない。我が失われるのだ。体がおかしくなる。おかしいおかしいおかしい。わめき散らしたいくらいに。帰りにビバホーム寄って殺虫剤とデッキブラシを買う。車に積んでたホウキとちりとりを借りていく。帰宅してベランダを徹底掃除した。洗濯機の排水口がお隣と共有なわけだが、隣の人が基本的にずっと汚いまま放置しているからそこが最近詰まってきていた。でも一応排水口自体はお隣のベランダの領域で、私の方からはホースを伸ばしているにすぎない。でもやっぱりあそこが汚いのがよくないのではないか、またどうしても土埃がたまってくるからそれら全部を一旦徹底的に掃除してきれいにして、それから殺虫対策をする、それでダメなら引越せばいいんだ!と考えることにしたのだった。バケツやヤカン、鍋に水を何度も汲んでは運び、ベランダで長靴を履いて生まれて初めて買ったデッキブラシでゴシゴシと擦り、洗濯機との間になんとか体をすり込ませ割り箸でぬかるみゴミを取り、パイプユニッシュを流し込み、ハイターをぶっかけ、最後にまた水を流して乾かしたのちブラックキャップを置いて殺虫剤をまんべんなく吹き付けた。汗だらだらになりながら。体がぎこちなくなるくらいくたくたになった。生理もきたから余計に体が変だ。こんなことやりたくない、と思いながらでもやらなきゃ意味がない、と自分で自分をまさに鼓舞した。誰も頼れる人なんかいない、自分でやらなきゃダメなんだ!と本気で鼓舞をした。泣ける。シャワーを浴びて、食べるものが尽きてきてたので買い物に行った。さすがにご飯を作るのも飽きてきた。そんなのずっと飽きてるだろと思いつつ、意欲の問題だ。とにかく疲れて早く寝た。引越し物件はずっと探してた。でももちろんお金がかかるからしないほうが良いのだろう。でも暑い間はずっと虫対策をし続けなければならないと思うとつらすぎる。つらい。ずっとビクビクしてるのが本当に疲れるのだ。引越したいけどそれは大変だ。でも虫がいやだ。ほんとにやだ。誰かどうにかしてよと急に投げやりな怒りに変わるくらいの生命に関わることだ。こんなの誰もわかってくれない。疲れて生理も痛くて早々に寝た。

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