現場だったからいつもより1時間早く起きて上野に行ったら早々に今日の現場は無しになったと聞いてがっかりする。いや雨はもうすぐ止むでしょ、天気予報もみんなそういってるし現に今目の前がそんな感じなのになぜ今日をキャンセルの判断にしたのか、しかもそれで金曜に回したら負担大きくなって超疲れるじゃん最悪じゃん、と私は思ってしまう。外の仕事の時は冬は特に服装に関する準備を念入りにしてきているからそれが全部むげになったのが腹立たしいのだった。前日のうちからの準備、早起き、いつもより遠い駅まで歩きいつもより長く電車にゆられわざわざ来たからにはやってしまいたい、仕事を終わらせたい、そもそもやる気できているのだからそれを削がれるのはがっかりが半端ない。ということを自分でも嫌というほど味わう。とりあえずあさいさんに文句ぶうたれる。会社行って少し作り物して13時過ぎに終わらせてはま寿司いってお昼にした。フライドポテトとすし4皿を食べた。サーモンとブリがやけに脂。帰宅してカーテンの丈の足りてないとこに付け足すべく買っておいた布をそろそろ取り付けるべきだと思ってアイロンとスケールと裁縫道具取り出してやるもなんか眠気するしそんなやる気が出ない。折り目つけたりするとこまでやって終わり。すごい中途半端。めんどくさい。母がきてヤクルトとか紅茶とか恵方巻とかもらう。ユリイカ読む。おもしろい。ドミューンのアルバ・と・アイラー特集を見聞きちらほら。22時半からの大谷、菊地、佐々木の組み合わせが出来上がりすぎている。笑ってしまう。大谷さんは酔っ払うと肩が上がる、という指摘が好き。なんかまあずるいよなあ、これがさすがというものかというか、面白さというものを自在に出したり引っ込めたり操ってしまえる想像もつかないような膨大な知識や見識に支えられている人たちに聴衆はうっかり引き込まれてしまうものだ。最近見た菊地さんの中ではなんか一番良かったのでは。好感と嫌悪感と両方とがあるから。

仕事終わりにロフトによって梳きバサミと普通のカット用ハサミとを買って帰り、伸びてもさもさしていた襟足を切った。美容院行くのはまだ先にしたいけど、襟足はどうにかしたい、そこで今回は冷静だったからちゃんとした散髪用ハサミを買うことにした。梳きバサミの方は2400円くらいのを買った。安いと痛そうで。合わせ鏡をどうにかしてこしらえてやったらわりとうまくいったような気がする。Tさんはおそらく私の癖っ毛ぷりで襟足を短くしないように切ってくれているんだと思うけどどうしても襟足を短くしたかったので切った。襟足切るだけでも印象随分違うな。しかしやはり自分できるのはすごく疲れる。気を使うし、時間の感覚から切り離されてしまうし、肉体的にも緊張にまみれる。今月の100分で名著の朗読が北村有起哉で良い。取り上げてる「黒い皮膚・白い仮面」もすごく面白そうだな。なんかすごく目新しい視点なわけでもないような気がしながらしかしとても新鮮な視点だと感じた。そしてそれは日本人も重ねうる視点なのではないか。全く同じではないけれど、少し違うけれど、その差異というのがけれど近接しうるものがあるのでは、というのは最近他の物事にも感じることのように思う。

よし、書こう書こうやっぱり書こうと思った、日記を。とりあえず今日したことを書こう。そんなことを歩きながら思っていた。いつの間にか、歳をかさねていくなかで、自分がどんどんますます空っぽになていく感覚がある。わかる。それは止められない。抗うこともないまま、そのまま空っぽに近づいていく。ならば以前は、若い頃には満たされていたのかというと、満たされていたのかもしれない、若さに、時間に、無自覚に。ひたひたと老化していく自分は存在が薄くなっていくようだ。自分に手応えがなくなっていく。どんどんどんどん諦めることを受け入れていけるようになる。悲しさにも慣れる。変わらず早く死にたいと思ってるけど、そういつだって早く死にたいと思っているのが自分なのだとすなりと受け入れられるようになっているいつの間にか。そうでしか生きられない。そう思っている自分でしか肯定できない。それははたから見たら独りよがりでみじめったらしいだろうか。そう見られてもかまわない。私にとってはそれを肯定しないことには自分を肯定できないことに気がついてしまった。その方が自分にとっては楽で、それによって他人とわかりあえないのだとしてそうなのだろうと思う。むなしくさっさと早く死ねるなら死にたい。死にゆく人が羨ましいと私は思ってしまう。それを否定することはできない。けれど他人からは否定されうる。それはどちらも自由に可能なんだろう。ただ思わせてほしいだけだ。そんな考え方をしているからみじめに感じるのだと言われるかもしれない。けれど私にはこれしかない。切って落とすことはできない。こんなことを自分で受け入れることさえどんだけの時間がかかったことかと思うと、到底他人に理解してもらおうとは思わない。だから誰かに言おうとは思わない。誰にもわかられたくもないということかもしれない。そのバリケード。わかられたくない。わかるなんて言われたくない。わからないままで、それでそのままで良いのに。そんなことあり得るだろうか?

晴れていた。午前中は窓をあけて日差しが部屋に入るのを楽しむくらいに。美術館に行きたいような気を持ちつつ、なんだか足がやけにだるい気がして無理だと思う。14時半過ぎくらいになってコクーンに行ってユニクロユニクロユーのメンズラインをいくつか試着してポロシャツを買った。レディースのピタッとした服がこわい。無印でハイネックのインナーと化粧水など買う。本屋でサイゾー探してたらユリイカの坂本裕二特集が残り1冊、平置きされてるの見たら書いたくなってしまう。サイゾー男性学特集とかで読んでみようと思ってたけど、買わなかった。図書館になかったっけ?ないかな。あと茨木のりこの岩波文庫から出てる詩集とあわせて買った。レジは混んでいる。ライフで少し買い物して、気づけば肩がぐったり疲れていた。スタバでいちごのチーズケーキみたいなのとラテ飲んで図書館で借りてるユリイカ韓国映画特集を読む。ポン・ジュノに関するいくつかを読む。18時半くらいになって急いで帰る。シャワー浴びてご飯作ってなんとか麒麟がくるに間に合う。最後のシーン、家康を安土城に呼んだ場での信長の光秀への嫌がらせがやばい。あえてここでやる信長、嫉妬が激しい。光秀はなんかいつの間にか信長のそうゆう拗らせの気持ち気づかなくなっちゃったの?って思わないこともない。21時からモーサムライブ配信Youtubeで見る。6曲くらいかな、渋谷パルコの地下にあるらしいクアトロラボというバーらしき場所から簡素なセッティングで、生々しい。なんかもうあれこれ笑えてしまった。映像が、あんな何が何だか狙ってるのかそうじゃあないのかわからない映像、この配信の時代に初めて見た。でもなんかそんな荒削りなのがモーサムは似合ってしまいもする。かっこつけてもない、まるで等身大の人間だなと思わされる。

また書いてない。書くのは怖いしめんどくさい。自分のなかのほとんどはめんどくさい。日記書くと、結局自分のいやらしいところばっかりになる。じめじめっとしたこれまで何度となく繰り返し書いてきたような同じことを書いて、自分に嘆きながら自分を可愛がっている。もしくは書いている満足感や優越感みたいなもの、あれはなんだろうな、ダサさがあってそのことに気づきながら気づいてないフリ、要はフリがすごいのだ。それがおえおえと気持ちわるいことになる。相変わらずこうやって自分を貶めたい。自分は最低最悪な人間ですと言わずにはいられない。ただのままではいられない、それはつらい、結局楽になりたい。先週のジャズトゥナイト、そう言えば佐藤允彦さんがゲストだったのに聞いてなかったとツイッター眺めてたら気がついて今晩で聞き逃し終わってしまうと思って今聞き始めた。

昨日母とルミネのエスカレーター降りてるところでまたみずほ証券の話されて、また私が言ってたことと全然違うこと言ってるから、もうこれ正すの何回目?と思ったらいやんなっちゃって、もういい加減にしてよという苛立ちがひどく嫌なわざとらしい抑揚をつけた物言いを私にさせた。声量自体は出していないつもりで、けれど臆面もなく家でもない明るい電気のついた知らない人々が行き交うような場所でもお構いもなくこんないやーな言い方を母親にしてしまえる自分に次の瞬間気づいてしまい、ハッとした驚きと、恥じらいよりもそれよりはそれでも自分のこの感情表出は当然なんだからという気持ちだった。でもそこで母がひるんだ。私の言動に自分の非を認めたみたいに。昔だったら母ももっと言い返してきていたと思う。母がなぜそうしなくなったのか、私の方で想像しうる可能性もいくつかあるけど真意はわからない。母は「あら、そう」といった素っ気なさそうな態度で私に背を向けて次のエスカレーターを降りていった。私はその後ろ姿につづいた。その後ろ姿を視界に入れながら私は一気に嫌な気持ちになっていた。あんなに嫌な物言いをわざわざした自分、自分の怒りの表明をことさら強調し、非難して見せた自分が急激に愚かしく感じられた。だから嫌なんだと思った。だから母が嫌いだ。母以外の人に果たしてあれほどの態度を出せるだろうか。(出せるかも)母は歳をとってきて物覚えが悪くなってきているから、それは老化していく中で当然のことできっと本人もそれを自覚して苦々しく思っているであろうこともわかるのに、それでも私が何度も話したことを(3回くらい)相変わらず覚えていないということに私は裏切りを感じてしまうのだ。まあそれは誰に対してもそうかもしれない。自分がした話を覚えてもらえていないと時にはヒュッとした切るような風が吹くものだ。それでいて自分は同じ人に同じ話を繰り返しした時相手は前にも聞いた話だと気づかれているんだけど。でもやっぱり母に対しては、繋がりの強い相手にはその裏切りをキツくキツく問い詰めたくなってしまう。問い詰めていいと思っているのだ。私の話なんて聞いていないんだ、という切り裂きに、血がドバドバ出てしまう痛みに声を上げずにいられなくなる。異常じゃないか?と思う。そしてこれは母と祖母の関係の写しじゃないか、と気づかずにいられない。母と祖母、母と娘の私、という関係がほぼコピーになっているのは随分前から気付く機会があった。それは様々な場面であった。母もまた同じように祖母に対して抑えきれない怒りをあらわにし、祖母はその内なにも言い返さないようになり口のそとに出されなかった言葉は逆流し、その言葉たちでやや膨らんだような体をぎゅっとふんばって押さえ込んでいるように見えた。おんなじだおんなじだ。ああおそろしい。ああいやだ。どんなに嫌だと思っても逃れられないものがある。それはもう私に染みこんでしまっている。染みこむというか、それはどんな手段を持ってしてもえぐりとれやしないだろうというような。

生理前だからかどうだかわからないけど気分が沈んでしまう。何もかも意欲的にはなれない。明るくもない。健全な明るいハリのある人格を形成できなくて友達からのラインも返せない。口を開けばあれもいやこれもいやしか言えない。あれもこれもどれもが悪い。だから私は憂うつだと説明しなくちゃいけないのか?自分のなんもかんもが嫌、という態度でずっと生きてるからきっとずっとこのままなんだなということに甘えている。生きたいわけじゃないからなあというところがまた救う。自分んはどんな理想の高みを見ているんだ、と思うんだけどそのチクチクした精神がやめられないんだろうなと思う。

日記を書かなくてもなんの支障もない。でもああ書いてないな、と思い始める、と思えば何をどう書けるか、書くかについて思い巡らしていたりするな。なんかもっと気楽に書きたいからこうゆうふうに書けばいいや、それだけでいいや、ということを思った気がするけどその具体的中身については忘れている。全く日記の書き方がへただなと思う。向いてない。もっとさらっとスンとした日記が書けたら良いだろう。今日は実家に帰ろうかと思ったけど刺しゅうが終わらずやめた。刺しゅうしながら録画しといたドキュメンタリーなどをどんどん見ていってる。映像の世紀は見てたら面白いんだけどどうしても西欧と日本ばっかりじゃんってなる偏り。ドラマの岸辺露伴は動かないを見ていると、高橋一生はこんな声出るんだなーと驚く。森山未来も出てて、二人とも背が高くはない方だ、というのが良いのではないかと思う。それがあの独特の衣装やセットの中でぼてっとした存在感を出す。あれでモデルもやってますの高身長俳優だったら全然違ってしまうだろう。さかのぼった日記を書いておこう。そうしよう。