自分の心が汚すぎて、と、ハッとして気づくとその汚泥に足を取られてもう動けなくなっている。もう遅い。抜け出せない。自分はそこにいるしかない。日々自分は悪い人間なんだと唱えずにいられない。それを自分にわからせないといけないんだというように。そうゆうことをやめなければいけないんだと思う。やめなければ、この苦しさから逃れられない。そうわかっているのに、やめられない。やめ方がわからないと言うより、やめることができない。やめるなんてありえない。無理だ。何か方法があるとして、それを受け入れられないと思う。こわい。今までずっとずっとやってきたことを、この積み重ねを、今さらやめるなんて、この荷をおろすなんて、許されないと思う。許してたまるか。自分で自分を許したくなんかないのだ。

最近はいろんなところに行くのがこわい。行ったことのないところ。知らないところ。いつから、いつの間に、こんなことになってしまったんだろう。どうしてだろう。わからないけど、こわい。初めて訪れる場所、そこはどこにドアがあって、どう入ればいいんだろう。中へ入ったらどんな人がいるだろう、いないんだろうか。そこで私は視線をどこにやればいい?どの方向に向かって歩けばいい?どんな格好ならおかしく思われないだろうか。記憶に残りたくない。

日記を書くのがこわい。頭の中ではいつも日記として文章にすることを考えているのに、それを日記として書き出すのを避けている。

 

私は自分で自分を大切にするということができないんだと、はっきりと気がついた。いくらかまえ、1ヶ月か、2ヶ月前か、もう少し前だったか。その事実、というかその文字に、愕然として納得して、その確かさに身動きが取れないと思った。私は「それ」から一生抜け出せないと思った。それは考えを改めればいいということなんだと思う。そうしていいんだ、そうするべきなんだ、自分で自分の人生をより良くするために。でも絶対に私には無理だ、そんなことできるわけがない、そんなことは絶対にできない、私にはそれが絶対にできない、無理だ、というその服従は一体どこからやってきたのだろう。でも絶対無理だって、私がいうことを聞かない。そんなことできない。そんなことを私はしたことがない。そう、私はずっとずっと繰り返し自分で自分をさんざん痛めつけてきた。いかに自分がダメな人間か、卑しい人間か、どれほど悪くて酷いのか、それをいうための言葉を探し続けていた。それを書き連ねないといけないのだと思っていた。それができないとダメなんだと。もう、それらはやってしまった。もう取り返しがつかないことなんだ。全てを自覚して受け入れてしまっている。自分を大切にする、ということとは真反対のことを自分はやってきたのだ。日々、自分をけなしてけなして痛めつけてこんな愚かな自分は早く死ぬべきなんだと言いつけてきた。実家の自分の部屋の壁に、死ね死ね死ね死ねとマジックで書き連ねたのは自分の体の外側からそう言われているんだと言い聞かせたかった、自覚したかったから。自分の皮膚に同じように描いたのも、自分の心だけがそう言っているのでは許されないと思ったから。もっともっとその声が欲しかった。死ね死ね死ね死ねともっと言われたかった。それで死にたかった。

その後も私は生きている。ずっと生きてる。よく生きていると思う。よく生きたい訳じゃない。生きたいなんて、私が思うようなことじゃない。私には口にできない言葉だ。私は早く死にたいと言っていることしかない。それしかない。それしかない。気づいたらそうだったんだ。私がよく生きたいなんて言えるわけがない。そんな根拠がない。そう思う思い方がわからない。どうしたらそんなこと、そんなふうに、思えるんだろう。でもきっとそう思って生きらられる人たちがいるんだ。その人たちと自分はあまりにも違う人間なのではないか。私には到底無理だ。自分がよく生きるなんてあり得ない。あり得ないとしか言えない。そんなこと許せない。そんなこと、本当に、絶対に、言わない。頭で考えられないんだ。イメージができない。

自分を否定ばかりしてきた。肯定することなんて、あったんだろうか。どれが肯定?どれかは肯定かもしれない。けれどけれどそれらはすぐに霧散してしまう。自分でも自分が言っていることは何かおかしいと思う。穴というか、ズレというか、空洞というか、繋がっていないおかしな土地のよう。私はそこをずっと歩いているのだろうか。

日記を書くとなると、こうやって、辛いことに向き合わなくちゃいけなくて、それが最近はもう嫌なんだ。逃げたいんだ。自分の頭の中だけで考えてそれで終わりたい。書き留めていくことの苦しさがから顔をそむけたい。嫌い。逃げたい。日記なんて書いてなかったことにしたい。自分を記したくない。

 

アダルトチルドレンについての本を今一度読み返したほうがいいのではないか、と思うも怖くてできない。

13時半から金川さんの写真集『長い間』の出品記念のイベントで写真集の読書会みたいな集いに参加する。なんか限りなく敷居は低そうな設定だけどしかしこの写真集の特殊さからすると敷居が高いように思えないこともないような。でも日記を読む会の時もそうだったけど日記についても写真についても自分がこれまでずっと考えたり感じたりしてきた興味のある対象のことをラフに安易に話せる機会の設定というのはそうそうないもので、それをそうゆう設定で提示していること自体が珍しく思える。

最近またすっかり展示を見に行かなくなったのは、見ることが怖くなり億劫になっていたからで、それは見ても自分にはたいしてなにも理解できないことへのげんなりする落胆を避けたいから、というようなものがある。何かを見ても自分は浅い知識や浅い理解しかできない。そのことの恥ずかしさ。自分に圧倒的に足りない知性や学び、好奇心やそこから発展させる思考、そんなものがまるでないその程度の自分がアートを見ようとすることに自分で自分が嫌になり、それなら最初から見ない方がいいんじゃないかという気になってしまう。見たところで私はなんも理解できないんだ、と思ってしまう。こわくて、惨めになってしまう。ずっとずっといつまでもこの羞恥心が自分にまとわりついている。私にはよくわからないのに、みんなはどうやらわかっているらしい、評価があるらしい、それを汲み取れず読み取れない自分は愚かで稚拙ということ?それならそれでいいけど、それなのに何かを見ようとすることは、いったいなんなんだろう。時間をむだにしているのか。無為さが、なぜこんなにも、いつからこんなにも怖くなってしまったんだろう。

でも、それでも何かを見たい欲望が完全に消せるわけじゃない。未練がましいのか。知らないものを知りたいし、もしかしたらそこに何かがあるかもしれないという可能性を捨てられない。なにかを考えてみたりしたいんだという憧れ?ないものねだり?少しでもマシな人間になりたいんだ。

ここまで書いて時間をおいてしまった何について書いてたのかわからなくなってしまった。家でパソコンで日記を書く時間というのがあまりとれないからスマホのメモで電車に乗ってる時間などに書くことでどうにか日記をやっていこうと思っているけど通勤時間も大してそんなに長くもないから勢いで書き連ねていることがスポっと終わってしまうな。でも頭ん中で考えてることは一度きりのタイミングですべて出揃ってるわけではなく、長いスパンで考えていることもたくさんあってそれを書くタイミングがどこにあるか、ということでもある。でも忘れてしまうとなかったことになってしまうからそれは嫌だ。

13時半からの参加者は金川さんと私とナナルイの鈴木薫さんの3人。昨日のうちに聞きたいこと話したいことをメモに書いていてそれを出してひとつずつ潰していくようにすればいいかなと思っていたけど同時にそれはなんか違うような、とも思っていて、結局メモ帳を開くことはなかった。書いたことから記憶でたどって引っ張り出した。だから聞けなかったこともいくつかあるけど、まあ全部は無理だっただろう。書いて用意することと、人を前にして話すことは全然違う空気の停滞や流れがある。古屋誠一の話はしたかったし、もっとできればよかったかもしれない。大学生のころに写真に興味を持つようになって結局今でも一番興味があるのは写真のような、写真なら自分で楽しみを見つけて見ることが可能のような、でもだからといって写真をよく知っているわけではない。それでも、カメラを持って自分でも写真を撮るということをしてきた経験が写真を見るということにふくらみを持たせているのかも、ということに、今回参加してはじめてそれは意識に上がってきたのかも。それは誰かに自分はこうでこうだからと話したせいか。写真を撮ることも日記を撮ることもどちらも自分の内だけで終わることでそれをひとりで続けていて、それが自分の外側に出る、光のあるところにもっていけるということ自体考えたこともなかったようなことで、それが偶然にも金川さんのウェルカムな態度と言葉によって、あ、そうゆうことが可能なんだところっと懐柔されてしまうみたいな、ハッとして顔をあげると扉が開かれていることに気づいたような、そんな作用が働いているみたいだ。金川さんの写真や日記や様々な文章や直接会って聞く話、会話やらが増えれば増えるほど金川さんという人はよくわからない人だということがわかってくる。それはきっと多くの人に対してこの人ってこんな人なんだ、なんだろうという推定ができてその一面でしか触れないのに、それが多面になってしまうから、そうなるとこうゆう人なんだ、とは言えなくなってしまうからなのかなと思うけど。

文芸誌で日記をいろんな人が書いたものが載っていた時、日記観が揺さぶられたかもしれない。日記が何か、みんなの役に立つものとして扱われるということにショックを少なからず受けたかもしれない。それが理解できると同時に拒否感もないことはなかった。誰かの日記を役立てるみたいな感じ。日記が売り物になるという生々しさ。多分植本さんとか金川さんの日記とかはそこで明確に違うんだけど、でもなんか、お金になる日記とならない日記、価値のある日記とない日記、ということが示されるようで嫌な気持ちになった。自分の日記は最初からどこにも属していなかったはずなのに、急にそこで登場させられてしまうかのような。そうゆう話を少ししたけど、でも話しきれなかったという感覚も残る。

書いた「もの」や撮った「もの」の話ではなく書く「こと」、撮る「こと」について、それはまるで素朴な行為や営みであり個人で完結することなんだけど、それを交換しあえる「こと」として扱うということが私には新鮮な新しい風が入ってくるようなことなのかもしれない。まあふだん自分の好んでる物事について話をする人がいないというのも大きいと思うけど。きっとそうゆう人たちがいたら良いんだろうと思うけど私にはおらず、そうゆう人たちとどうで会うのかもわからず、そもそも人付き合いが私にはかなり不得手なことのように思えるし自ら積極的に出会おうとするほどの気持ちは欠如しているようにも思う。むしろそれはこわい、常にこわさはあるからもう一人でいることに慣れきってしまっている。まあひとりでもいいか、と思えてしまう。でも人と出会えば面白い。でも自分が相手から面白いと思ってもらうほどの人間味はないと思う。だから自分から積極的には生きられない。

その日あった出来事を日記として書き連ねるのは難しく、こんなようなら違う話、終わらない話のことを書いてしまう。なんなんだ。

1時間とたぶん少し超えて会はおしまい。次の時間の人たちも来ているみたいだった。一階の狭いスペースで開かれてた展示を見せてもらう。QRコードが、なぜか電波がなくて見れなかった。なんだかよくわからんぞと思いながらじっと見ていたら在中していたNILさんが話しかけてくださり作品のことをひとつひとつ教えてくれた。そしてVRの作品もやらせてもらうと、葉山の神奈川近美のイサムノグチが出てきたのでああこれは!となった。なんか最近、コロナがあってから以降アートに対して興味好奇心をあまり持てなくなってしまっているが、でもこうやってわかってしまうものがあり、それがあるだけで初対面の人とさえこんなふうに会話をすることができてしまう、ということにショック感を覚える。逃れられなさであるような。

なんだかんだで日記を書きたい。だって書き始めると書けてしまうんだ。体がいくらでも書けるという。でもそれでも書かないという時、それがこわい。不気味。書いていたら正常でいられる、正常さの担保になってくれてるようにさえ感じる。書いていないのは体たらくで、怠けていることの証のように脅しのような存在であることがそこはイコールされる。日記を書いているという正しさ?

昼過ぎに母と会うことに。氷川参道のアップコーヒー前で待ち合わす。新都心から歩く。帽子をかぶっていて汗をたらす。3組待っていた。このようなカフェがここにしかないからここに人が集まる。ここでなきゃいけない理由とは何だろう。なんでもいいのにわざわざここを選んで訪れる。ドーナツが美味しかった。さくらんぼ狩りに行ったというお土産をもらう。私が誘われ、断ったやつだ。行けばよかっただろうかと一瞬よぎって、いや行かなくて良かったんだと思う。2月から4月の2ヶ月連絡を絶っていたのは結果的に良いことのようにして現在に影響している感じがする。自分の気持ちの問題だろうか、それとも母にも影響していることだろうか。わからないが。コクーンへ行ってkeenでサンダルを試着。楽天ポイントを使って楽天で買うつもりだから試着だけにしたいけど試着したら買わないわけにはいかない雰囲気が生まれる、それを果たしてのりこえられるか?と思いつつ。ユニークという種類の底がフラットなものとよりクッションが踵についたものとを履いて、フラットな方でいいだろうと思っていたが試着したらクッションの強い方がぴったりきた。最近はお店で試着することが億劫になりつつあるけどでもやっぱり実際試さないとわからない、それはわかってる。しかしそれの、白の、24サイズ、それがちょうど在庫がなく、ネットショップにもなく、他店のものも取り寄せられるかどうかはわからないとのこと、それはラッキーそれならネットで探してみますと言うことができた。ほっとした。そのあといくつか店を見て駅で母と別れた。それから迷って恵比寿に行くことにした。ナディッフアパートで金川さんの展示を見た。4ヶ月分を一月ずつまとめた冊子もひとつずつ見た。金川さんのだからあまりに当然みたいになっちゃってるけど、写真と日記がひとまとめになっている、ドッキングしているというのは、なんかまあすごく魅力的でおもしろく感じる、そのことに慣れたというか、それを楽しむ素地がすでに自分にはできてしまっているということか。セルフポートレートといってもそれは誰かに撮ってもらった写真で、そこに写っている金川さんは居心地が良さそう。裸を見るとは皮ふを見ることで、なんかやたら皮ふに目がいく気がしたけど冊子を見てたらきっと皮ふ科でもらったんだろうなという薬の容器の写真を見て、私はアトピーとか皮膚の弱い皮ふ科通いの人に対してそれだけで親近感を覚えてしまうから、それは知らない皮ふじゃなくなる感覚?、なめらかなすべすべの透き通るような肌よりも、がさっとした皮ふに地続きを感じるんだ。地下でやってた展示も良くて、色鉛筆を多色使いした鮮やかな絵というのが私はほんと好きなんだなと思う。ステートメントに書かれていた昔読んだ少女漫画の忘れられないシーン、描写についての話が良かった。私にもそうゆうものがある。見ると頭がすっきりしていく。だけど見ることがいつもこわくなる。自分は何も理解できないんじゃないかと思うと、作品を見るのがいやになる。なにもかも私にはわからないんじゃないかって。でもこうやって見ることは、見せてもらえることに勇気づけられるというか。それは作り手の覚悟の凄みの前にあっとうてきな高さの壁を感じるよう。さっさと帰ろうと思って金川さんの10月の冊子とヴァージニア・ウルフを購入してレジを去ろうとした時、エプロンをつけた店員さん?が軽くおじぎをしてくれていたのに気がついた。そういえばさっきから居たかもしれない。って、そうか、もしやこの人が太田さんか?と気付かされる。そのとき私はもうナディッフを出ようとしている。だって、金川さんの冊子にも写真があったよなあ。太田さんプロデュースの棚もさっき見ていて、うわすごい面白いことをしてるんだなあと驚きをもって親しみを覚えたのだった。特にVHSテープと本とを組み合わせた3点セットを1袋にまとめたものが異様なエネルギーを放っているようで、なんか、ああゆうものを久しぶりに見て嗅いだ気がした。それでその時ZINEを1冊買おうと思ったのに、すっかり忘れてしまっていた。ああ、見せてもらったんだし、買うべきだったなあと思いながら引き返しはしない。北千住に住んでた頃を思い出す。北千住なら日比谷線で帰るのに。何度も思い出してしまう。北千住に住んでた頃はやはり楽しかったんだ。帰宅して、迷ってたけどええいっと明日の金川さんのイベントに申し込んでみる。そのあと金川さんからメッセージがきて明日のイベントについて調整してもらう。日記を読む会に参加させてもらって、それが2019年か、それから何度か直接会ったことがあって、金川さんは見てる限り誰にでも開けた態度で接してる人だなと思うしだからほとんどの人は警戒なく話すことができそうだと思うしその人柄というのはとてもいい感じだと思うけど、私はでも日記を互いに読み聞きしたという経験からの信頼というか安心というか許容があると思う。それはだから10代の頃に私の日記を読んでくれててそのまま今でも付き合いのある、直接顔を合わせずともただネットで生存確認はできているというそれだけでもつながりを感じさせてくれている人たちが同じであるように。日記がそんなに特別かというと、そうだとも言えるし特にそんなことはないとも言えるし。でもそれは他にはない鎖のほどかれ方だとは思う。あとは多分それ以外にもこったが一方的に金川さんの文章を読むことで知り得るものごとから親近感みたいなものがより多くあるような気はしているけど、なんかそれが写真集の日記からなのか、日記を読む会で聞いた日記からなのか、実際会って喋った時の話なのか、日記ではない雑誌やwebメディアやツイッターで読んだ話なのか、『いなくなっていない父』で読んだのか、おそらく全部が混ざってるんだけど、なんか一方的に私が情報を得ているだけみたいで、まあそれでいいというかそれはどうしようもない部分なんだろうけど、なんかその状態の自分にキモさを感じないわけにもいかないところはあるよなあと。