13時半から金川さんの写真集『長い間』の出品記念のイベントで写真集の読書会みたいな集いに参加する。なんか限りなく敷居は低そうな設定だけどしかしこの写真集の特殊さからすると敷居が高いように思えないこともないような。でも日記を読む会の時もそうだったけど日記についても写真についても自分がこれまでずっと考えたり感じたりしてきた興味のある対象のことをラフに安易に話せる機会の設定というのはそうそうないもので、それをそうゆう設定で提示していること自体が珍しく思える。

最近またすっかり展示を見に行かなくなったのは、見ることが怖くなり億劫になっていたからで、それは見ても自分にはたいしてなにも理解できないことへのげんなりする落胆を避けたいから、というようなものがある。何かを見ても自分は浅い知識や浅い理解しかできない。そのことの恥ずかしさ。自分に圧倒的に足りない知性や学び、好奇心やそこから発展させる思考、そんなものがまるでないその程度の自分がアートを見ようとすることに自分で自分が嫌になり、それなら最初から見ない方がいいんじゃないかという気になってしまう。見たところで私はなんも理解できないんだ、と思ってしまう。こわくて、惨めになってしまう。ずっとずっといつまでもこの羞恥心が自分にまとわりついている。私にはよくわからないのに、みんなはどうやらわかっているらしい、評価があるらしい、それを汲み取れず読み取れない自分は愚かで稚拙ということ?それならそれでいいけど、それなのに何かを見ようとすることは、いったいなんなんだろう。時間をむだにしているのか。無為さが、なぜこんなにも、いつからこんなにも怖くなってしまったんだろう。

でも、それでも何かを見たい欲望が完全に消せるわけじゃない。未練がましいのか。知らないものを知りたいし、もしかしたらそこに何かがあるかもしれないという可能性を捨てられない。なにかを考えてみたりしたいんだという憧れ?ないものねだり?少しでもマシな人間になりたいんだ。

ここまで書いて時間をおいてしまった何について書いてたのかわからなくなってしまった。家でパソコンで日記を書く時間というのがあまりとれないからスマホのメモで電車に乗ってる時間などに書くことでどうにか日記をやっていこうと思っているけど通勤時間も大してそんなに長くもないから勢いで書き連ねていることがスポっと終わってしまうな。でも頭ん中で考えてることは一度きりのタイミングですべて出揃ってるわけではなく、長いスパンで考えていることもたくさんあってそれを書くタイミングがどこにあるか、ということでもある。でも忘れてしまうとなかったことになってしまうからそれは嫌だ。

13時半からの参加者は金川さんと私とナナルイの鈴木薫さんの3人。昨日のうちに聞きたいこと話したいことをメモに書いていてそれを出してひとつずつ潰していくようにすればいいかなと思っていたけど同時にそれはなんか違うような、とも思っていて、結局メモ帳を開くことはなかった。書いたことから記憶でたどって引っ張り出した。だから聞けなかったこともいくつかあるけど、まあ全部は無理だっただろう。書いて用意することと、人を前にして話すことは全然違う空気の停滞や流れがある。古屋誠一の話はしたかったし、もっとできればよかったかもしれない。大学生のころに写真に興味を持つようになって結局今でも一番興味があるのは写真のような、写真なら自分で楽しみを見つけて見ることが可能のような、でもだからといって写真をよく知っているわけではない。それでも、カメラを持って自分でも写真を撮るということをしてきた経験が写真を見るということにふくらみを持たせているのかも、ということに、今回参加してはじめてそれは意識に上がってきたのかも。それは誰かに自分はこうでこうだからと話したせいか。写真を撮ることも日記を撮ることもどちらも自分の内だけで終わることでそれをひとりで続けていて、それが自分の外側に出る、光のあるところにもっていけるということ自体考えたこともなかったようなことで、それが偶然にも金川さんのウェルカムな態度と言葉によって、あ、そうゆうことが可能なんだところっと懐柔されてしまうみたいな、ハッとして顔をあげると扉が開かれていることに気づいたような、そんな作用が働いているみたいだ。金川さんの写真や日記や様々な文章や直接会って聞く話、会話やらが増えれば増えるほど金川さんという人はよくわからない人だということがわかってくる。それはきっと多くの人に対してこの人ってこんな人なんだ、なんだろうという推定ができてその一面でしか触れないのに、それが多面になってしまうから、そうなるとこうゆう人なんだ、とは言えなくなってしまうからなのかなと思うけど。

文芸誌で日記をいろんな人が書いたものが載っていた時、日記観が揺さぶられたかもしれない。日記が何か、みんなの役に立つものとして扱われるということにショックを少なからず受けたかもしれない。それが理解できると同時に拒否感もないことはなかった。誰かの日記を役立てるみたいな感じ。日記が売り物になるという生々しさ。多分植本さんとか金川さんの日記とかはそこで明確に違うんだけど、でもなんか、お金になる日記とならない日記、価値のある日記とない日記、ということが示されるようで嫌な気持ちになった。自分の日記は最初からどこにも属していなかったはずなのに、急にそこで登場させられてしまうかのような。そうゆう話を少ししたけど、でも話しきれなかったという感覚も残る。

書いた「もの」や撮った「もの」の話ではなく書く「こと」、撮る「こと」について、それはまるで素朴な行為や営みであり個人で完結することなんだけど、それを交換しあえる「こと」として扱うということが私には新鮮な新しい風が入ってくるようなことなのかもしれない。まあふだん自分の好んでる物事について話をする人がいないというのも大きいと思うけど。きっとそうゆう人たちがいたら良いんだろうと思うけど私にはおらず、そうゆう人たちとどうで会うのかもわからず、そもそも人付き合いが私にはかなり不得手なことのように思えるし自ら積極的に出会おうとするほどの気持ちは欠如しているようにも思う。むしろそれはこわい、常にこわさはあるからもう一人でいることに慣れきってしまっている。まあひとりでもいいか、と思えてしまう。でも人と出会えば面白い。でも自分が相手から面白いと思ってもらうほどの人間味はないと思う。だから自分から積極的には生きられない。

その日あった出来事を日記として書き連ねるのは難しく、こんなようなら違う話、終わらない話のことを書いてしまう。なんなんだ。

1時間とたぶん少し超えて会はおしまい。次の時間の人たちも来ているみたいだった。一階の狭いスペースで開かれてた展示を見せてもらう。QRコードが、なぜか電波がなくて見れなかった。なんだかよくわからんぞと思いながらじっと見ていたら在中していたNILさんが話しかけてくださり作品のことをひとつひとつ教えてくれた。そしてVRの作品もやらせてもらうと、葉山の神奈川近美のイサムノグチが出てきたのでああこれは!となった。なんか最近、コロナがあってから以降アートに対して興味好奇心をあまり持てなくなってしまっているが、でもこうやってわかってしまうものがあり、それがあるだけで初対面の人とさえこんなふうに会話をすることができてしまう、ということにショック感を覚える。逃れられなさであるような。