CHIBA FOTOで金川晋吾さんの「他人の記録」を見た。金川さんは写真集「father」に自身の日記を載せていたが、今回の展示では展示場所にまつわる今は亡き女性の日記をどのように扱うか、というところから日記というものが受けとめる個人の存在について迫真していくようなところが面白いと思った。

地階では様々な人の声、日記の朗読の音声に肖像写真が不規則に並んでいて、誰が誰とも分からない。どんな関係性であるかを想像もできるし、何もないのかもしれない。低く狭いけれど明るくて、上の階の軋みのようなものも聞こえて人の生死や時間が曖昧によく分からなくなって、ホラーのようにもなる。

隣の建物では2ヶ月間日記を書き、写真を撮るワークショップの成果展として参加者の方たちの日記が製本された形で置かれていて読むことができた。写真は独立して壁面にも展示されていて、子供の写真を2枚だけセレクトして他の人より大きめのサイズで展示していた写真が目を引いた。

人の日記を読むというのは読む側にも何か要求されるものがあると思う。わざわざ他人の日記を読むなんて、物書きとして発表している人のものならまだしも、奇妙なことに思える。だからこそそこを乗り越えるなら書き手と読み手に関係性は生まれるだろうと思う。まあ日記というものをどう定義するかがある

と思うけど。誰だか知らない人の日記として読み始めたのに、日記を通してその人のことを知っていくような気になる。相互性はなく、受け取ってるという感じ。その人の名前も顔も知らない。何を知れば知り合いになるのか。知り合いよりも知られている感じだったり。でも何かそれで十分というような。

日記に書かれること全てが素直に誠実に本音で書かれた真実だなんて思わない。悩み、問い、反省したり後悔しながらも誰に見られるわけでなくとも日記上でさえ善き人であろうとしたりもするのではないか。 どんなであれ日記を書くのだという態度で書かれた日記や人に興味があるようには思う。

私は自分が勝手に人のことを日記に書いてしまうから、だから誰かに自分のことを日記にどう書かれてもしょうがないなと思っている。誰かに好き勝手に書かれることを許すなら自分も許されたい。なんかまあ日記にはそうあってほしいなと自分としては思っているのだろうな。矛盾しながら。

私は日記つけはじめて21年とか経っておりその間1人でひたすらずっとなんで日記書いてるんだか日記ってなんなのさと時の移り変わりとともにうだうだ考えてきて割と偏って凝り固まった日記観があるがこのお二人のやりとりに、なんか、溶ける

日記は読む側にもなにか、態度が求められるだろうと思う。人の日記を読むのはたやすいことじゃない。それは知らない人の日記でもそこからショックを受けることだってありうるし、他人に興味を持てるかどうかもわからない。だから、もしそれらを乗り越えたときには書き手と読み手には関係が生まれるだろうと思う。

 

人の日記に自分が記されているかもしれない。そこにどんな風に記されているかはわからない。でも私は自分が勝手に人のことを記しているから、まあどう記されようとしょうがないと思っている。記されたいと願って記されていなくてもしょうがない。なんかまあそんな風に考えてる私はずいぶん暴力的なんだなと、人の考えを聞いてしまうと思う。でも結局人に気づかってそれで出てきてるのが日記じゃないか。それでそれが日記なんだ。日記に一切気遣いがないなんてないんじゃないか。日記にはただすらすら事実が本心が素直誠実に書いてあるわけなんかないじゃないか。自分に問いかけ、自分をいさめ、絶望してはいたわり、願望を、理想を、誰も見ていないと思いながらもきれいごとを書いたりもするんだ。人の日記にそうゆうものがあらわれていると、私は面白いと思っているのかもしれない。