Kさんから日記の朗読の再録を頼まれたのでその2日分の日記をおずおずと読みかえして助詞のおかしいところなど読みにくい場所をチェックして変更する。なんというか、目で読むのと声に出して読むのとは、ものすごく違うから、これを声に出して読むのかと思うと、いざとなるとそんなの無茶だろうと冷静に確実に恥ずかしく思えてくる。それは多分日記を読む会に初めて行く、行こうとしてた前日になってもまだ気持ちを決めきれずにいた時とほぼ同じに思えた。最初はなんてことないことだと思っていたのにその落差、自分はバカなのか?と思えるくらいの落差。特に私は画面上で自分に、知らない人に読まれるのは想定していてそこではあえてというか作為的に読みづらいものを書こうとしてきている癖そのままだから、読みやすく、意味がくみ取りやすくといったことを避けてきているから、自分で時間が経って読みかえした時にも何を言っているのかわかりかねるところがある。でもまあそれで良いんだと思っている、でもそれを声に出して読む時、意味のよくわからないものを読むというのは心理的にやっかいさがある。でもそれを今の自分の解釈で変えてしまったら台無しだからそうゆうのはそのままにしておいた。でも実際つっかえていた。

雨ももう降らないんだろうと思って行った下北沢はもうほんとすっかり駅が変わっていて、よく考えたら昔の小田急線の駅の感じがどうだったのかはうろ覚えだ。地上に駅があったってことだよな?あれよくわからなくなってきた。でも記憶の中に10代の自分がいる。Kさんに会うのは1年半ぶりくらいで、その前回はコロナが始まってはいたけど互いにマスクはしていなかった。カウンター席しかないカレーやでぎゅうぎゅうになりながらカレーを食べたような、と思い返すと、そんなことができた時代、として捉えてしまう。なんでも。それが、それで正しいのかな?そう思ってしまうことになぜか心地悪さを覚える。なぜだろう。今は違う土地にいるみたいだから。飲食店が何時までやっているのかもよくわからなくなってくる。お茶しながらこないだ見た展示の感想など伝える。今年も全然展示などを見に行ってなくて、だから余計に印象に残っているのかもしれない。雨が降ってきたなか移動してレンタルスペースにて録音される。普段全くしていない作業だとしみじみ思う。なんて難しいことかと思う。普段自分は好き勝手に喉を声を使っているだけなんだなあとわかる。Kさんと別れ、帰る電車に乗ったら急にどっと疲労感というかなんだかよくわからないけど落ち込み始まって、自分に嫌悪感が走る。短い時間の中でわあっと自分のことを喋ったりしたからかもしれない。そうゆうことは前にもある。よくわからない。何も考えられない状態になっているのはわかり、帰宅して作っておいたスープを食べて、普通ならここですぐにシャワーでも浴びるのにそんな気になれない自分というのははっきりとわかって、それでyoutubeBTSの動画を見るのだった。ここ最近のこれは明らかに自分の感情の逃避のようだと思う。何も考えたくない、知りたくない、判断をしたくない、時間を忘れたい、過ぎ去ってほしい、注意深く何かを見たり読んだり聞いたりして言葉を紡がねばならないことに疲労を見出してしまうからただ繰り返し見ていられる、眺めているだけ、目で追っているだけで満たされるものを見ていたいようなそんな感じがある。すごいと思っているだけでいい。2時間くらいは見てただろうか。なんだかシャワー浴びるのも嫌になって明日も休んでしまいたいけど起きてシャワー浴びるように6時に目覚ましをかけてようやく2時頃に寝た。本当にもうこうゆう時は嘘みたいに一気に別人格になったみたいに早く死にたい早く死にたいと言いながら布団に入るのだった。あの裏返り方は生々しくて笑えないこともない。

ワクチンの予約をしたくても取れなくて、取れなかったなと思うとき、本当にそんなにワクチンを打ちたいのか?と問いかけられる。ワクチンを打ちたいということは、コロナウィルスで死にたくないということだろう?と。そんなに死にたくないの?って。それには、いや、そうゆうことじゃない、死にたくないわけじゃないんだ、と言いだす自分がいる。でも自分がかかって誰かに迷惑をかけることにはなりたくない、それだけだ。Aさんなんてコロナにかかったら完全に重傷者まっしぐらな人だし。Aさんが早く打ち終わってくれればいいのに。そうしたら、じゃあ私は打たなくてもいいんだろうか?あれ?どうなんだろう?と思えてくる。ワクチンを打って、生き延びたいと思っているような自分に気づく時、気持ち悪い、と吐く自分がいる。それは自分に反するだろう?という声が私の中にはいる。ああ私はそうゆう人だった。それを確認できただけ安心もある。いつだって私は早く死にたいでしょう?自分にずっとそう言い聞かせてきた。自分はどれだけ死を恐れずにいられるのか。