なぜ私は日記を続けているのか、という問いの仕方自体正しいのかどうかもよくわからない。私には日記を書かないという選択肢がないというか、日記を書くという行為を忘れてはならない気がするのだ。書かなくたって生きていける、もちろん生きていける。書く必要なんてない。書かなくちゃいけないことなんてない。日記は読み返すときが一番面白い。それは10代の時に気づいていた。読み返す未来のために日記を書く、というのはなんか誰にも伝わらないようなことな気がしたり、自分でもそんなことのために?という疑問や奇妙さを感じてしまってそれをそのまま口に出すことはずっと後ろめたくはばかられていたと思うけど、でもその考えは10代の頃から自分の中にあった。実際、日記は読み返したときが面白い、という感覚、話はどれだけの人に理解されうるんだろうか?まあとはいえ書いている時には未来に読まれることを意識しているわけではない。書いたばかりの鮮度ある日記はただの記述にしか見えない。

日記を書くことを忘れてはいけないよ、というようなささやきがある。だから私は日記を書くことを忘れられない。やめられない。正確には、私は日記を書くということをしなくちゃいけない、というような動機になるだろうか。それは義務のような、縛りつけられた、ほどけることのない身のようにイメージできる。実際そう、囚われているといっても過言ではないないような。それくらいに私は日記を書くことを忘れてはならない。それはもう誰からのささやきなのか全くわからないのに、でもその声を消し去ることはできずむしろ延々受け入れ続けることで20年も日記を書くという行為を忘れないでいる。そして私は日記を書くことは自分のためになるのだと信じ込んでいるから続けていられるのだろうとも思う。

10代の頃はかなり明確に日記に書いておかないと忘れてしまうから、というような記憶の忘却への忌避感があったと思うのにそれらはいつしか随分薄まったように思う。それは日記を書く回数がどんどん減っていって、それによってほとんどおおよその日々の記録はなく、あとから見返せば記憶の忘却なんてまるで防げやしないのだということを受け入れるようになったからなのかもしれない。そして記録しなければならない、忘れてはいけないほどの日々なんてないのだという、若い頃にはあったのであろうしがみつきもが薄れてしまったのだろう。忘れていったっていいだろう、忘れること、覚えていないことは罪でも悪でもないだろうというだらしない態度。それでも私は日記を書くことをやめられない。忘れてはいけないという警告が消えない。

急にこんなことを書きたくなった。書くことはこわい。時間があっという間になくなっているから。時間が圧縮されているかのようなのだ。書いている時に時間は意識されない。日記を書くのに何分以内に書かなくていけないということはない。何時までに仕上げなくてはいけないということもない。ただ日記を書いていただけなのに時間がなくなっているということに驚いてしまう。書いたのはちょうど考えていたことだが、Kさんから連絡をもらってそれでひとまず書き留めておかないという雪崩が引き起こされたようだ。

完全に毎日BTSの動画を見ないといられなくなっててなんかもう自分がおかしいじゃん?と思うけど誰にも言えない。