なぜかログインもしてないはずなのに同じ日記が違う日時で勝手に再投稿されていたりして奇妙だがそういえば同じようなことは何度かあったような。連続して日記を書いていなすぎてそういったことさえわからない。書いたらいいと思うのに、書く気にならない。頭の中では書くための文字を打っている。それを外に出すことができない。昨日試しにツイッターで書いてみた。ツイッターの方が限られた文字数内に納めることをまた違う一つの目的とすることができて、それによって書けたりするだろうと思う。でも同時に気持ち悪いとも思う。気持ち悪い。ツイッターもなんだかよくわからなくなってきた。なんでも使ってないとよくわからなくなってしまう。そんなものだった。それでも生きていける。

こないだ書いたことの続きのようなものを書きたい。けれど前回書いたものを読み直したくはない。だから続きがわからない。ずっと考えていたことがあり、最近気づいたことがあり、それらが全部まざりあってしまう、材料として。私は母に対して怒り、苛立ちを持ってそこまで父のことを悪くいうのなら、なぜそのような人と結婚したのか、なぜそんなような相手との子供のふたり目を産んだのか、なぜ別れない、別れなかったのかということを問い詰めたい自分がいることにはっきりと気がついた。それは以前からいただろうけど、結局直接それを聞くことはできない、しない自分がいるから、結局選択した母を目の前に見ているからそんな問いは無意味なんだと蓋をしてきたのだ。父のしてきた言動はたしかに最低なもので、人としてゲスだし腹がたって嫌になって貶めたいと思うのは当然だろうと思う。であればこそ、それが完全にわかるようになればなるほど、ではなぜそんな人と?という問いが私の中では高まっていったと言える。幼い頃から母から父の悪口を聞かされてきた。そういう時に子供は簡単にどちらかの側だけにつくという行為は取れないものだろう。不憫な母をかわいそうと思わなくてはいけないが、母から悪く言われる父のこともまたかわいそうだと思わなくてはいけない。それはしなければいけない、という強制的なことではなく、そうせざるをえない、そうすることしかできないという選択肢のない態度だと思う。それが子供という立場の人のことだ。当惑とともに。母から父の愚痴を何度も繰り返し聞かされるのはとても嫌なことだった、けれどそれを聞いてあげないといけないとも思わされる。耳をそらしてはいけないと、よく聞きなさいとむしろ言われているかのような。次第にじゃあなんでふたりは結婚したの?一人目を産んでそれで分かった事があるはずなのに、じゃあなんで二人目の私を産んだの?私がいることでより一層不幸になったということなの?それなら私はいない方がよかったという事なのか、と考えるにいたって全くおかしくない事だと今ならわかる。母にはこの思考回路など全く見えてもいないのだろうと思うと、親という人はなんて罪深い人なんだろうと思ってしまう。母自体を恨もうとは思わない。それは親、母親という立場に追い込まれた母のいたしかたなさだと思う。そもそも父という人の不出来さが、父親というものをやれるような人じゃなかったんだと私は理解している。というか今でもほとんどやってないだろうと思えるわけだが。そもそも私には父親像というものが適切にない気がする。ドラマなどで見る父親像というのはどれも幻想なのではないかという不確かさで、人のいい父親というのが本当に存在するらしいと知ったのは大学に入ってからだった。にわかには信じ難かったけれど、やっぱり本当にいるらしい。今までに物語の中で見た家族像や父親像で一番しっくりきたのは黒沢清監督の「トウキョウソナタ」だった。作品としての面白さ、という基準では評価できない映画作品こそが大体自分にとっての引っかかってしょうがないものでありそれゆえ面白いかどうかではなく、そこに何かがあったという感じになる。ずっと、ラストシーンが印象的だと自分の中では思っていた。ラストシーンがどんなだったかなんてすぐ忘れてしまう映画だってあるのに。けれどそのラストに至る4人家族の姿に、家に、親近感のような、寄り添えるものを感じていた事、それは極めて特異な事だっただろうと公開時に映画館で見た時から時間が経ったからこそ思える。いつもどこかで自分に似たものを探しているだろう。限りなく近く、似た存在や感情があることを願い、探しているだろう。けれど探せば探すほどそうそうないこともわかってしまう。こないだネットで石井裕也監督の「ぼくたちのの家族」を見て、それは探し求めているものにとても近さを感じると同時にだからこそ細部でいややっぱり違う、と裏切られるような気持ちになってしまった自分がいた。母親が家の幹として存在し、全てが母という存在なしには繋がりえないような家族の姿はとてもよく理解できたけれど、解決してしまうんだ、という事に落胆してしまう。そう思った時、トウキョウソタが頭によみがえる。他の黒沢作品を見て面白いと思ってもどうしてもトウキョウソナタが引っかかる。あれは面白かったのかどうか、面白いかどうかと言えるほど距離を取れず、得体の知れないよくわからなさのままであるしかないような。一度見ただけなのに、あの家の中にあった空気感や、風になびくカーテン、小泉今日子演じる母親のうつろ、役所広司の乱入、海、といった場面をよく覚えている。今考えてみると、泥棒のような形でだったか家に侵入してきた役所広司によって家を飛び出す事ができた母親という人は私にとってまるで理想であるかのようだと思う。いやそのあと家に戻っているわけだが、私が母に問いかける、ではなぜ父と別れなかったのか、つまりなぜ今もともに暮らしご飯を作って差し出しているのか、どうして決別しないのかという疑問に行動で示されることになっているから。けれどそれもそれでずいぶん身勝手な話だ。というよりは母をそこに完全に重ね合わせられることに今になって気づいたことに恐怖を感じる。だからトウキョウソナタを見返すべきだろうと思いつつそうゆう時にびびってすぐに見返したりができないところが自分の性根をあらわにしているようだ。こうしてまた父親を言語化することから離れてしまいそう。戻ろう。父親、男というものを支えている思想、思考を私は嫌悪する。その上で改めて自分の父という人の意地の悪さ、不誠実さ、傲慢さ等々を嫌悪する。まともな人として存在し、まともな人同士でつむがれた家という中にいる人たちがこの年になってとても羨ましいと思うようになってしまった。家族という形はどこの家でもたいがい歪なものがあるだろうと思うけれど、それが大ごとにならずにすんでいる、すませられている人たちというのはある程度いるのだろう、そうゆう人たちが羨ましいと思ってしまう。そして現状自分の目にはほとんどの家がそうなんだろうと見えてしまう。結局私は自分の家をとても嫌悪しているのだろう。自分も、両親も、実家の隣に住む姉家族という形態も、全てがちゃんちゃらおかしいと思えてしまう。そしてそれがひどく醜いものに見えてしまう。だから他の家が比べてしまえばどこもかしこも見栄えよく感じてしまうに至っているのかもしれない。私は嫌悪する。けれど同時に嫌悪してはいけないという規制が私を縛り付けてもいる。母を父を家族を家を貶してはいけない、ひどいことを言って傷つけてはいけない。それは一度やってきているからこそまたその反動か?良い子供であらねばならない、という規範と、良い子供ではない自分は愛されない許されないという結果、つくづくつくづく考えれば考えるほど自分は子供のままでいるのだと気づいてしまう。対処法は身につけたが、その対処法の耐年数が何度も切れる。その度にこわい。何を考えればいいのだろう。