液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

イメージフォーラムタル・ベーラ監督のサタンタンゴを見た。確かシュリンゲンジーフ特集を見に行っていた6月頃だったろうか、毎度予告で流れるこの映画を見ていて、ああきっとこれを見に来なきゃいけないことになるんだろうなあとは思っていた。そうしてあっという間に9月になった。一度一緒に見にきた友達も、あれ気になるなと言っていたが果たして見ているだろうか、見るだろうか。東京以外の全国でも結構上映されるようで、世の中には7時間超えの映画を見てみたいという需要が結構あるのだなと思う。しっかり前の晩は寝ていったが、最初が冷房効いてなくて蒸し暑くてたまらなかったせいか所々でまぶたが重くなった。ほぼ満席、後方席で見たがどうも人の寝息など聞こえたのは1部の頃だった気がする(休憩2回をはさんだ3部構成、映画の中にインターミッションという表示のカットが組み込まれていたので最初からここで休憩という風に作られているのだなあ)

まず最初のカットからして恐ろしい。遠い向こう。極端に少ないカット数。つまり長い1カット。ずいぶん遠い気がする向こう。そこから、徐々に徐々に匂いや空気が風として運ばれてくるような。ずいぶん暗いモノクロの世界。憂鬱で、太陽なんてあるのだろうか。ハンガリーはずっとこのように曇天なんだろうか。それは遠い知らない場所だと思う。けれど、時間をかけてこのモノクロの世界が自分のいる全てかのように移り変わっていった。意外だったのは同じシーンを違う視点から捉えるという時間の流れだった。それはこの長時間の映画の中で一体どのような効果を果たすというのだろうか。なんとなく1カットが長いこともあってひたすら横移動していく時間経過を想像していたので、巻き戻るような効果に私は少し驚き、新鮮味を感じたのだった。視点が変わるとこのように違う、同じ風景がこのように違うということをこのモノクロの世界で率直に鑑賞する。あくまでも私たちはこの状況を鑑賞しているのだと強く意識させられる。

3部のそれぞれがどれも印象的だと言えるが、もはや記憶の中では多くを見逃し落としてもいるんだろう。2部は少女と猫のシーンがちょっと辛い、いや結構辛い。うっ、、と我慢するようになんとか見た。なんだあれは。でも、わからないでもない気もしないことはない、かも。私が小学3年くらいの頃から家ではねこを飼い始めたが、私も子供の頃はずいぶんねこに暴力的な振る舞いを、それが悪いとも思わずしていたのではないか。良いというわけでもなく、ただストレートな行為であったような。今思い返すと、ひどく残酷だった気がするな、そういえば、そうゆうこともあった。しかしなぜそんなようなものが映画で描かれうるというのか。パンフレット買うお金なくて買ってこなかったけどやっぱり買いに行けば何かわかるんだろうか。

2部では長いダンスシーンでうつらうつらしてしまったんだよなあ。退屈とかではなく、ゆだねられるように。けれど目を開けても、再度目を開けてもまだ踊っていたので、ああこれはずっと続いている時間なんだ、ずっと踊り続けられているんだと認識することができた。それって実際にはいや違うカットなんだよということかもしれないが、いや私にはそれはずっと続いているんだとすんなり当てはめ、理解したのだった。そのことが自分には印象的な出来事だった。そんなのってある?ないと思う。

3部冒頭ではアップで喋り続けるイミリアーシュの語り、なにこのイケメン、これでは圧倒的に飼いならされてしまうじゃん…。どこのシーンだったかなあ、ひどくゾッとするところがあった。これはまるで今の日本みたいだなと思うところがあった。なぜ彼らはイミリアーシュの言うことに異議を唱えないのか。唱えられないようにもはや設定されてしまっている。その力関係はあまりに奇妙で、なぜどうしてと思うが人にはこのような感情に陥ることがあるのだろうとも思う。そこにあるのは罪なのか?何かへの罪なのか?けれどそれが本当に罪なのか。警察署でのカットがとても印象的だ。ここではずっと起きていたわけだが2部のダンスのシーンと似たものを感じたような。ずっと見ている、ということが奇妙に感じられてきた。カメラはどこにいるのか、どう動いているのか、見るということに頭こんがらがる。