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また体調が悪い。体調というか、お尻が痛いというか、お尻に鉛が仕込まれてるかのようなおもだるさがあってそれが邪魔でしんどい。

朝、目が覚めたときからやけに超がつくほどだるかったのでなんか変だとは思った。あさいさんは現場だったのでひとりでつくりものをしなければいけなかったが、しんどいのでひとまず横になったものの回復しない。午後にもまた横になるがいまいち。だらだらとなんとかやらなきゃいけない最低ラインまでは終わらす。早めにあがることにして花屋に寄ったら花が沢山あって癒される。花屋は混雑していた。

家に着く頃にはお尻から腰がはっきり痛い。まだ生理じゃないのに変だなあと思いながらなんとか夕飯をつくり、食べるとお風呂になんて入れないわこりゃもうだめ、という状態になってしまい爆睡。起きたら夜中の3時だった。

ここで、ほぼ生まれてこのかた夢を見ない、夢を覚えていない私がかなりはっきりと覚えていることができた夢を見た。変な時間だったせいか、いつもなら覚えてても瞬時に忘れるのに忘れられていない。

私と両親でかなり古そうな1Kほどのアパートに引っ越してきたらしい。1階のように思われる。キッチンと、引き戸で仕切られた畳の部屋。私が引き戸をあけてキッチンに行こうとすると床にうんこが落ちている。猫などにしてはあきらかにでかい立派さ。窓が全開になっていたので、私はそこから何者かが侵入してうんこしていったのだと思う。部屋にいる両親に窓開けてるからだよ、といったことを言う。なぜか平気で軽くうんこを踏む。そして全開のキッチンの窓の向こうからなにか勧誘みたいな男の人の声がする。いや結構ですなどとはっきり断る。するとその人は玄関の方にまわってドアをガチャガチャとしたあと天気予報を大声で読み上げ始める。迷惑ですやめてくださいなどと言うがやめず、勢いでドアを開けてしまうと向こうから押しやられ白人ぽい外国人の男性に銃をお腹のあたりに突きつけられた。その銃の重たさや冷たさや色、光を受けたテカリ、などに気を失いそうなほどの感覚をさらわれてはっとして目覚めてしまったらしい。やけにその銃のリアルさが印象的で、夢ってこんなにこわいものだったのか、と白々しく思ったりした。

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友達のaちゃんの誕生日祝いで銀座三越ラデュレへ行ってアフタヌーンティーのセットを頼んだ。そこで日記の話をした。確か彼女はスマホのアプリで日記をつけているということを前に聞いていた。今は子育てもあり、箇条書きの記録のように何をした何があったなどを書いているらしい。でも以前は書くようにすすめられて書いていたとか、お母さんの日記がある、という話も聞けて予想以上に日記の話で広がり、盛り上がった。

自分でも日記の話をしていて、あ、こないだと言ってることがちょっと違うなという箇所があり、それは全然違うことを言っているわけではなく、こないだまでは言い表せなかった自分の気持ちについてのことだったように思う。もうすでに今となってはその具体性を思い出せないのだが、確かに違った。あ、本当はこうゆうことを言いたかったはずだよな?と思った。そのように、相手や場によって言えることは変わるのだなと思った。

そのままツイッターの話にもなった。話をしていたら、あ、自分がツイッターでツイートをし、続けていることは、日記を続ける中で面白く感じていることと割と近いんだなということをはっきり意識させられた。いやちょっと違うか。いや、でも。それははっきりとした目に見える形での交流ではないということだ。自分の日記が読まれ他者の日記を読むことは見守られ、見守るというような態度だと感じている。ツイッター自体はそれよりもっと踏み込んだありようなんだろうけれど、私自身の使い方はやはり踏み込めないものだろう。声にしないシンパシーとかそういったもの。交換するような感じ。でも決してそれを受け取って、と明確に投げてるわけではない。個の態度がある人が基本的には好きだと思う。などなど思う。

彼女は大学時代の友達で、学生の頃は話をする時間なんていくらでもあったような気がする。なので、今は必ずそれが限られている、ということがいつも変な気がする。互いに何かを話しきったのか、どこかうつろな会話の終了のような気がする。大学よりも前の友達というのが、ネットで知り合った人以外にはいない。大学の後に知り合った人たちで連絡を取り続けている人もいないなと思う。私は基本的に人づきあいを得意としてないと思うし、むしろ内へ閉じていく人だろうと思う。そんな中で付き合いが続いているのは奇跡だなあと思う。

木曜と金曜と続けて日記を書けなかった。書かなきゃという思いはあるので頭の中で文字を打つ音を立てているが仕事で疲れてしまってもう余裕がなかった。なんかもうずっと仕事が詰まっている状態が続いていて、しんどい。ぬるっと休める日々がないと、それは土日の休みで補給されるものではなく、別物としてないと、毎日のやりくりがままならない気がする。こうやってたくさん働いたら果たしてボーナスが増えるんだろうか?それで何かを買うことを想像してワクワクすることも、辛さに耐えることもできるだろう。けれど、それがしたいのかといえば、なんだか違うような気もしてしまう。それより私は毎日日記を書けた方が安心するのではないか。もちろんもらえる、もらうべきお金はもらいたい。老後のための2千万とか、そんなこと示されてもなんの準備のしようもない。したくなんかない。お金を蓄えておくことに特別の希望もない。安心もない。いつか買いためたものを売ったり捨てたりするのかもしれない。壊れたり燃えたり流れ去ったり。買ったことを後悔するのかもしれない。それでも今は買えるものを買ってお金を使って、いつ死んでもいいようにいたい気持ちの方が多いだろうか。貧しさってなんだろうな。なんか書いていることがどんどんずれていく。仕事がしんどいと感じるのは、つまり体がしんどいのだ。体がしんどいと、気持ちもしんどい。

しかし昨日は行くのだと決めていたフィンランドのセラミックアーティスト、ルート・ブリュック展をステーションギャラリーへ見に行った。予想通り混んでいたが、それでも結局仕事終わりの疲労感がある中でみるわけでそんなに意気込んで見る気は無かったからそこまで気にしなかった。3階は1950年代の陶板作品がずらり。日常の風景や動物、聖母子像などの宗教的イメージ、個人的なものから普遍的なものまでが様々な色の釉薬、技法によって表現されていて、とてもかわいらしくも荘厳さがある。鳥の群れの表現を見て南桂子を思い出した。いびつな造形は安定感がなく、横一列にたくさん並んでいるとなんとなくぎこちない感じを受けてしまうが、一つ一つの作品の前に立つととても引きこまれる。すっと静けさが訪れるように。でもなかなか人が多くて立ち止まらない。3階だけ撮影可ということでスマホで撮りまくる人たちも多い。図録買った方がきれいな写真ですよ、とはつい思う。撮りたくてたまらない衝動の発露が湧き出ているのを見るのは面白い。かわいいちゃぶ台にのったカリフラワー?

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2階では60年代以降の抽象的な表現へと変わり、深まっていく。色だけでなく、光と影、白と黒とその中に置かれる色彩、幾何学的な模様を大小無数のタイルで形作っていく。より大きな視界へと移っていくよう。じつに触りたくなる凹凸。大きな壁面作品は一体どれだけのタイルが使われているんだろう。そしてそれだけのタイルが隣りあい積み重なっているので全体のゆがみがまるで渦を巻くように蠢いているようにも見えた。微かな流動性があるようで、そのたゆたう感じがフィンランドにある風景なのかもしれないなどと想像した。タイルの光と影とそこに落とされる色彩が独特のリズムを構成していて、冷たくもあり温もりでもあるような。近くで見るのと遠くで見るのとでまた全然違う印象になるのもおもしろかった。

帰りに東京駅の外に出て見た。駅自体と駅前は照明の演出でグッと明かりがおさえられていて東京でいて東京じゃないような、異様につくられた場としての強力さを感じた。東京でこんなに演出された暗い屋外あるかなと思った。落ち着くよさがあると思った。明るいのはやはり疲れるんだろうな。でも、ふと隣のビルを見上げるとなんて数の電機。これ本当に全部必要でついてるのか?と思ってしまう。異様だと思った。こっちとあっち、全然違う思想でいるみたいだ。

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今日は都現美に行こうと思っていたものの、日曜から6連勤したのが効いててなかなか動き出しが遅く、洋服もしっくりこない、それでも準備して、雨ざあざあだけど、行くか、となんとか行くつもりなった頃にはすでにだるさに傾きつつあった。一旦外に出たのに、やはり風が強いし雨も強いしと思ったら行く気が失せてしまった。明日は明日で一日用事があるからもう今日行かないと見れないんだけどまあもういいか、見れなくてもしょうがない、と言い聞かせてやめにした。早くに見に行っておけばよかったものだ。ダメだなと思う。ディスタントを読み終えた。会話がひたすら続いて書かれるところがとても良く、心地よい。誰の発言なのかわからなくなりそうになりながら、リズムよく転がっていく。追いかけるような逃さないこまかな描写。光をよく見ているんだなと思う。どんどんこの本の気持ち良さに落ちていってしまうようだった。こんな風に人のこころは揺れ動くのだなと、自分もそれで動かされる。

 

日記を読む会の録音を聞いていて、自分の日記には他者が全然出てこないのだ、他の人たちの日記には出てくるが、と思うと、自分以外の人という人たちはそうゆうものだったりするのだなあと知る。人付き合いが少ない私はさみしい人なのか、と思うけれど、そう思えばさみしい、考えてみればさみしいと思うけど、考えていなければそれで平然と進む日々を送っているのだから簡単には言えない。ただ、自分は他者のことをよく知らないままで生きていってしまうのかもしれないと思う。人を知りたいし関わりたいとは思っても、自分からそれを積極的にしようとまではないと思う。そうゆう手段を知らないのだろうか?

その手段を平然と使いこなしている人たちは眩しく、羨ましさがこみ上げる。別のホシの人たちかのような、違う空気を吸い違う言語を操っているかのような。急に遠近感が生まれる。私がその手段を知らないのは、私には使いこなせないからなんだろうと想像する。自分には、ない、ということは少し胸が痛い。けれど、それが自分にちょうど良くなってしまった、ちょうどよくしてしまったんだよなあ、と過去に目配せをする。もうそれは後悔などではなく。このような人間もいる。

というようにいくらでもこうやって自分を誤魔化すことができるようになった。若い頃の苦しさに比べたら随分マシだ。もうあの頃のように同じように苦しむことはできないのかもしれないな、と思う。それは幸福だろうか、ラッキーだろうか。よくわからないと思う。最近よく思うのは、少し前にも書いたかもしれないけど、自分を否定し続けた末に残った今のこの自分というものの空っぽさについてだ。私は一体何をしてしまったのだろう?といった怖れさえ浮かび上がる。いやそれとも一切関係ないのか。いつまでも答えを見つけられそうにないことがこわい。けれど、怯えることもできないような。

 

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最近はコールスターサラダを作るのにはまっている。よく作る。よく食べる。作りながらiphoneで音楽を聞く。料理をしながら聞く音楽は意外と自分に寄りそってくれるかのようによく聞こえる。

田辺聖子さんが亡くなったそうだ。アエラの昔のインタビューの発言が印象的だ。子供の頃から全然本を読んでこなかった私にはなんだか響くなあ。それでも大学生の頃から少しずつ読むようになってきてるけど、子供の頃から読むことが癖づいてる人とは圧倒的に読める量が違うだろうと思う。もっと読めるようになりたいけれど読めなさもあるのだ。

恋愛が苦手な人は、言葉数の手持ちが少ないんだと思う。恋愛って言葉が大事だから、本をたくさん読んでほしい。言葉をいっぱい集めて、自分の舌でなんべんも転がしていくうちに、だんだんなじみのあるものになっていくから。もっとお口に油塗って、おしゃべりを楽しみ合わないと。相手を少しでも気持ちよくさせてあげようって。

 

日記を読む会のことで思い出したことの追記。ワークショップといった名前にはしなかったというこの会のこと。私が特に気になったというか気に入った?のは会を呼びかけた金川さん自身も参加するということだった。読みを終えたあとにみんなで会話をしているなかで人の日記を聞くだけではなく自分もさしだすのだといった話が出て、その、さしだすという表現は良い気がした。他の人たちもわりとそれはしっくりきているようだった。そこに続くようにして出たのがヒエラルキーといった話だったのだろうか。たしかに、とは思った。

今年に入って参加したもので言えば田中功起さんの可傷的な歴史のアッセンブリー、志賀理江子さんのヒューマンスプリングのてつがくカフェなどががどちらも全体の人数が多かったのは共通している。てつがくカフェの方が特に自分としては消化不良で、自分にはなじめない気もした。ヒエラルキーというわけではない気もするけど、そうゆうもの?が形成されないというわけでもないような感じはした。とにかく人数多すぎが辛かったし。アッセンブリーの方はグループになって10人程度にはなったし、特殊な環境を設定されたので緊張感含めよく聞きよく答えよく問いをださねばならないようなものがあったのは印象深い。私としては考える時間が短く感じたところもある。自分以外の人の話を同時にいくつも聞いていく作業は結構疲れるし大変でもある。私なんかはそこにおいて自分の言うことの正しさもすごく気になってしまうのでこわごわとするところもある。周りと比べたら自分の頭の悪さが出てしまうのがこわいというような。それは避けつつ避けられない直面状況。

日記を読む会でも少なからずそうゆうものは機能したと思うけど、でもそれが他の人たちの日記を聞いていくなかで変わっていったりもした。読み方についてもみんなであれこれ言いながら試してみたり、用意されたルールを試すのではなかったのは良かった気がする。

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昨日の夜からの爆睡、朝の6時というわりと普通の時間に起きる。もっと早く起きれるかと思っていたのに。シャワーを浴びる。疲れが取れてない気がする。寝たのに寝た気がしないのは、寝るという行為がちゃんと段取りされていないせいだろうか。手順、といったほうが適当か。ただすれば良いだけではない。

朝の車の中であさいさんから昨日の現場が夜中の2時過ぎまでかかったことなどを聞く。私はその前から随分寝ていたわけだ。こんな風に車の中で現場や人の愚痴やこぼれ話を聞くのは日課のようなものだ。仕事はそんな風にいくつもの理不尽さや意味不明さであふれ、まわっている。人たちは皆大体勝手で意思疎通を図るのはたやすくない。しかし最終的にはお金という対価があるからこそ、それらを接合させ、受け止める。お金が発生することで、まわる。その間には人やものや時間や空間がいくらでも割り込んできては入り乱れるが、結びを得ることができればそれで一件落着する。

午前中で大体のつくりものは終える。アルポリ床ラミ出力、カッティングのリタック、出力だしなど。あさいさんは絶賛体調悪そうなので午後には車に荷物積んで早々にあがることに。帰ろうかと思ったけど流石にかなり早いのでTOKASへ行くことにした。お茶の水から歩いて行く時順天堂大学病院の植木ゾーンを通るが、そこの植生が雑多にもしゃもしゃしていていつも目を奪われる。

予兆の輪郭第2期の展示、1期も見たかったけど終わってた。でも最初からミヤギフトシさんの作品が特に見たかったのだった。今まだ小説を読み途中であり、ちょうど昨日読んでたところが今回の作品においても交わったのでくいっと心つられる。オーケストラ音楽が流れるから。ミヤギさんの作品に流れる物語性はそれは内と外を分け隔てようとする窓が完全に開かれていて自分がどちら側にいるのかよくわからない状態にある。それでもその時自分はどちらかの側にいるのではないのか。写真が壁面にスライドで映し出されており左右にモニターがそれぞれある。しかしスライドの写真が真ん中ではなく右に寄っているのはなぜ?と思うが、それはハーフカメラで撮られた写真、ということなのかな。それも物語なのだろうか。イギリスで撮られた様々な場所、おそらく人は1枚にも写っていなかった。縦フレームで撮られた写真、ピンボケの写真もあれば水平のしっかり出た気持ちの良い写真、基本的にははっきりと撮られた写真が多いように感じた。君や彼が入り交じり、どれが、どこが、誰の視線なのか見失ってしまう。なんとなく頼りなくも見終える。サマセットモームの英国諜報員アシェンデンからの引用が気になる。読んでみようか。

他にルシアナ・ハナキ、エリサ・カルダナ&長坂有希の作品が気になった。けれど幾らかの物足りなさ。滞在制作の成果発表というのはそれはまた随分試されるものだなと思った。平日の午後、人は全然いなくて最後の最後にもう一人の人に出会った。平日の午後、それだけで時間も空間も急に広がり膨らむ気がして、なんだか贅沢なおおらかな気持ちになるのは不思議だな。

日記を書くだけで十分時間が取られる。毎日必要なものを買い物してはお金がなくなる。それでもまた次には買い忘れているものがある。そう言えば電車の中で日記を読む会で録音されたボイスメモをイヤホンで聞いた。読まれる日記の固有さ、それぞれに違う手触りのようなもの。日記は自分にとっては自分に語りかけるもの。読み上げることは、そこに恥ずかしさがある。あれ、なんか、もうちょっと思ったことがあったはずだっけど忘れてしまった。やはりすぐその時にメモしておかないとだめだな。

湯船に浸かりながら、岐阜の友達のことを思い出した。色々思っては、やめる。思うことを、やめる。どうゆう態度をとることが自分にとって素直なことなのか、もはや、どれをとったって嘘くさくて、無理してるみたいで、仮面をつけてるようで、わからないと思う。彼の前で正しい自分であったことなんて一度もないのか?それは誤魔化しだろうか、偽りだろうか。考えたくないのに、考えるらしい。