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友達のaちゃんの誕生日祝いで銀座三越ラデュレへ行ってアフタヌーンティーのセットを頼んだ。そこで日記の話をした。確か彼女はスマホのアプリで日記をつけているということを前に聞いていた。今は子育てもあり、箇条書きの記録のように何をした何があったなどを書いているらしい。でも以前は書くようにすすめられて書いていたとか、お母さんの日記がある、という話も聞けて予想以上に日記の話で広がり、盛り上がった。

自分でも日記の話をしていて、あ、こないだと言ってることがちょっと違うなという箇所があり、それは全然違うことを言っているわけではなく、こないだまでは言い表せなかった自分の気持ちについてのことだったように思う。もうすでに今となってはその具体性を思い出せないのだが、確かに違った。あ、本当はこうゆうことを言いたかったはずだよな?と思った。そのように、相手や場によって言えることは変わるのだなと思った。

そのままツイッターの話にもなった。話をしていたら、あ、自分がツイッターでツイートをし、続けていることは、日記を続ける中で面白く感じていることと割と近いんだなということをはっきり意識させられた。いやちょっと違うか。いや、でも。それははっきりとした目に見える形での交流ではないということだ。自分の日記が読まれ他者の日記を読むことは見守られ、見守るというような態度だと感じている。ツイッター自体はそれよりもっと踏み込んだありようなんだろうけれど、私自身の使い方はやはり踏み込めないものだろう。声にしないシンパシーとかそういったもの。交換するような感じ。でも決してそれを受け取って、と明確に投げてるわけではない。個の態度がある人が基本的には好きだと思う。などなど思う。

彼女は大学時代の友達で、学生の頃は話をする時間なんていくらでもあったような気がする。なので、今は必ずそれが限られている、ということがいつも変な気がする。互いに何かを話しきったのか、どこかうつろな会話の終了のような気がする。大学よりも前の友達というのが、ネットで知り合った人以外にはいない。大学の後に知り合った人たちで連絡を取り続けている人もいないなと思う。私は基本的に人づきあいを得意としてないと思うし、むしろ内へ閉じていく人だろうと思う。そんな中で付き合いが続いているのは奇跡だなあと思う。