午前中から写美へ行く。2月の恵比寿映像祭ぶり?2019年度の年パスが6月までということでそれなら早いうちにみにいこうと決めた。地下の展示室はなし、2と3階で3月から延期になってた写真とファッション 90年代以降の関係性を探ると森山大道の個展とを見た。森山大道の写真、考えたら私は写美のコレクション展でしか見たことないとかかもしれないと思った。どうかな、少なくとも個展に行ったことはないだろう。展示室1枚目にこれは見たことあるなと思う写美コレクションの三沢の犬。でもこの写真って紙やネット上でみすぎてて、本物、実際のプリント見ると、こんななんだ、へえ、という実感の方を意識させられる。そしてつづくカンヴァスにシルクスクリーンでプリントした作品、たしか一番新しい作品、それはとてもよかった。おもしろかった。三沢の犬があってそれが効いている気がした。シルクスクリーンという技法、素材をこんなに強く意識させられるとはという気さえした。1枚、上下に穴があいたラインが走っているのはこれはなんだと思ったけど、あ、フィルムの穴なのか、な、と思った。このシルクスクリーンの部屋は細長くあり、次にモノクロとカラーで対比させたような大きな部屋。まんなかがぽっかりあいた部屋の展示はたぶん好きだ。片手で持てる、シャッターを押せるカメラだからこそ撮れているような写真がある。特に気になった、電車の中、隣に座ってるであろう人のうなじと窓ガラス、からの外の景色が写っている1枚とか。体をひねって撮っただろうと思う。なんかこんなふうに撮る男の人が隣にいたらキモっと思うんじゃないか。写ってるのはうなじの感じからして女性っぽいし。その男の人の身なりがどうのこうのっていうか、この現代において女性はあらゆることに警戒せねばならず、その警戒心、恐怖心を男の人はわからないのかもしれないが、わからないのなら絶望を感じるけど知るべきだろう。そういったことはとても気になる。街を歩く人物は後ろ姿が多い。人の顔にはあまり興味がないようだ。最後の小部屋の網タイツにしたってそう。写真とファッションは監修が林央子さんで、長島有里枝さんの本で何度も名前が出てきていたことで知ったが、前に読んだエレン・フライスの印象的な記事のインタビュアーの方だったことに本を読んだ後気づいた。

美の見つけかた、視覚的編集のしかた:エレン・フライス interview【前編】 - i-D

たまたま読んだ、目を通したにすぎなかったのに、なんだかすごく斬新な気がした、驚きと、気高さでありながら柔らかである雰囲気、それはインタビュアーと共有されている空気感としてそもそも新鮮に感じたような、だから印象に残った。で長島さんの本を読んだ経験から全てがつながってわかったような気になった。だから今回の展示も写美という場所含めて納得につながる。展示はあっさりしながらこってりしている。前田征紀さんの展示が急に予想外すぎる作品の展示で動揺した。PUGMENTはこないだ都現美でも展示があったばかり、でも今回の展示見てより具体的に何をやってるのかがわかってきた。おもしろいな、いいな。

メゾンイチでお昼を食べた。なぜか店員さんが1人しかいなくて大変そうで見てられなかった。早々に出て、ナディッフ行って買い物。あさいさんの誕生日プレゼントにちょうど良いかもな品を見つけ、買う。ここのナディッフがなんとなくいちばん好き。本、写真集にはすべて袋に入れられていて、自由に中を見ることはできなくなっていた。このままずっと、こうなのだろうか。でもそれならそれで写真集はいいのかなって気もする。特別惹かれる写真集は結局表紙ですべてを決めていると思うから。

その後渋谷のイメージフォーラムへ。ビー・ガン監督の「凱里ブルース」を見た。3月の3連休の最後の日だったか、渋谷のヒューマントラストでロングデイズ・ジャーニー・イントゥ・ザ・ナイトを見て、そのままはしごしてイメフォへコロンバスを見に行ったら凱里ブルースの予告を見て、絶対見にこようと思った。でも結局その後映画館に行くことはなかった。どうせならこの流れをつなげようと思った。ロングデイズを見た、体験した熱がはなれなかった。劇中で人物が3Dメガネをかけ始めた時、観客の私たちもまたそれぞれにかちゃかちゃと音をたててメガネをかけた。そのサイン、知らせによってまたそこから始まる物語、世界。それからのあの感覚のことをひとになんと言えばいい?言いたくなんてない。またそんなような、あんなような映画の世界に入りたいという思いがうすらと生まれ、残り続けていた。初日初回の上映だからか、席が半数とは言え、売り切れになっていた。2月に見た娘は戦場で生まれたのときも同じ状況だった、ただ、その時は本当に全ての席が埋まっていたのだと思うと、一つずつ完璧に空白がうまれた座席の状況は以前と同じものではない、そのことが少し寂しく、しかし観客としては快適ではある、空席に荷物おけるし。でもやっぱり、違うことだ。一応あらすじは読んでいたが、まさか、この長編デビュー作においてもロングワンショットがあるとは知らなかったのでまた驚いてしまった。え、うわ、あら、そうなのか、、と気づかされるそのカメラワーク。そうだ、始まる前から体が暑くなってるからああ眠くなる、寝てしまうなあと思っていたらやはり最初の方でうとうとしてた。ロングデイズの時と同じく、タイトルは始まって数十分経ってから出る。闇からすうっと現れてすっと消える。それにしても同じ凱里が舞台とはいえあまりに共通、共有しているものごとが多くてますます魅了される。ビリヤード、バイク、トンネル通路、湿気、音楽のライブおよびステージ、そして今作では時計が象徴的に使われていた。ロングデイズもそうだったけど、なんか俳優さんみんな顔が似ているような気がしていまいち見分けがつかなくなる。アップになることもほとんどない気がするし。それが余計に何が何だかわからなくなっていく。誰の話だったのかなんだか。後半はただ自分はカメラになった気で見るわけだが、カメラは予想外の行動を取るので、おいおいおいどこ行くの、とまるで自分の体が勝手に動かされてしまうような気がする。それでも計算された秩序で動いているなと認識できる時もあるわけで、そっちがありながら無秩序に思えるような動きにさらされ、え?この行動は何?なんなの?とすごく動揺してしまう。人物を追っていたかと思ったら急にカメラは道をそれる。おそらくバイクに乗っての撮影なんだろうけど、にしても石階段を下っていくあの浮遊感はロングデイズの時のロープで下降した時の感覚に通じたなあ。ああ何度もまた見たい気がしてきてしまう。

 

明日も休みで、という連絡をあさいさんからもらう。予想はしていたが、なんだか急にはっきりと焦り、不安の覆いを広げ、かぶらずにいられなくなる。何かバイトでも探した方がいいのかも、という思いにも一気に火がつきネットで探しはじめる。短期のちょうどいいバイトというのはそうあるものでもない。ある種かなり限られている。お中元の時期だからか、関連するデパート等の事務作業、運送業の荷物仕分けが出ている。ヤマトは検索するとなにかとやばい話ばかりがあがっている。それらが事実だったとして、大勢の人が利用する運送会社にそうゆう状況があるのだということになんだかがっかりしてしまう。その状況は、そうなるべくしてそうなっているんだろうと思う。それは個人や企業に押しつけられる話じゃないだろうと思えるが、では、誰がどうすればよいというのだろう。どうしたら変われると。そんなのただの理想にすぎないのか。けれどそれでもその場、そういった場は存続し続けるのだろう。そこで働く人はいる、働きを求める人がいる、それぞれの理由や事情で。仕事、職業には優劣がつけられる。だけどその価値観はどれだけ正しいんだろうな。郵便局も求人があるが時給はぐっと安くなる。郵便局によって違うけど同じ地域ならほとんど変わらない。週5で4時間勤務が多い、それもそれで微妙なところだ、と頭を悩ましたところで今後の仕事の感じを率直にあさいさんにたずねてみた。見積もり依頼など増えてきてはいる、8月くらいから学会やらは再開していきそうとの話など。なんにせよ肉体労働はそれなりにハードだろうという読みがあるにせよ、そこまで頑張りたいわけでもないという気持ちがあり、もう一度よく考えてやるなら割の良さそうなバイトを検討しようと思う。重いものを持つのをつづけてると簡単に体を痛めるのは本業でわかりきっている。2月に左の股関節のあたりを痛めたまま治っていないのも気になっているくらいだ。むしろ痛みは広がってきてる。無理してまでやるのもなんか間違ってるかも、と急に冷静になった。馬鹿みたいだがこの馬鹿みたいな時間を通過しないと私はなにもわからずらきづけないのだろう。

ゲンロンカフェの大山顕 × 佐藤大 × 東浩紀の放送をタイムシフトで見たら面白くって、その中で話に出てたウエスト・ワールドをAmazonプライムで見始めた。なんかゲームオブスローンズも1話だけ見て見るの大変そうと思ってすぐに脱落決定をした身なので見続けられるかなと心配になるも、どうにかやってみようと思う。最近はものすごく体がだるい朝が連日続いていて、いったいどうしたものかと思う。無理やり起きて朝ご飯は食べて家事も最低限はやって、でもその後ベッドに倒れ込まずにいられないのだ。起き上がれないくらいに眠い、それで午前中がまるつぶれる。生理前の感じとも違う。死んでしまいそうというか、なんていうか、これは何かへの過程なのか?結果なのか?自分は判断すらできない。弱い生き物だと思う。

出勤する。現場の仕事が少し入りはじめてるようだけど、それにしてもつくりの仕事が入ってこない限り以前ほどには戻っていけないと思う。まあよく仕事をくれてたNさんが転職してしまった影響もあわせて今後でかいのかもしれない。どうなんだろう。そしたらすべて、どうなんだろう。以前と同じように、なんてもうないのかもしれないとも思う。おそれと希望が入り混じり、何を肯定しどれを信じればいいのかわからない、黙ってしまえば時が止まってしまう、それをおそれて素直に明るくつとめようとするのはあさいさんもそうなのだろうというか、あさいさんからそんなようなものが伝わってくることによって、ああ自分もそうなのだ、それに習うのだというような気持ちが動いている気もした。世の中は動き始めているらしいといったって、それの実態はわからない。母の会社は交代制で2時間だけらしい、姉の夫さんは引き続きリモートワーク、姉は引き続き育休中、通勤に使う電車は前は使ってなかった電車でもあり前からこの程度なのかどうか、混雑しているというほどのことはない程度で、もともとラッシュからは外れる時間帯ゆえ判断がつかない。でも、少ない気はする。自分たちだけが置いていかれてるような気がしてしまう。まあそもそも仕事が減り始めるタイミングが他の業種より1ヶ月くらい遅れてた感じがあるから、なんて言えるのも1ヶ月以内にすぎないのではと思うと、何も言えなくなる。

帰りにマルイの中の無印良品に行ってみた。そごうから移って、初めて訪れた気がする。ルミネよりもゆったりしてて良い気がする。鏡の前で服をあててみる、でも結局何も写ってないような気がする。自分の顔はマスクで覆われていて、髪型も影響してほとんど顔がないように見える。私は鏡で自分の顔色と洋服の色が釣り合うかを見たいのに、それでは何も求めるものが写らない。なんにもみえない。そう思うとがっかりした。化粧水などを買って帰った。駅には高校生らしき制服を着た若い人たちがグループでつるんでいた。彼らはいつだって何かを持て余しているようで、その宙ぶらりん具合がマスクをしていても関係ないみたいに無鉄砲な秩序で保たれていて良いとも悪いともいえない味わいがあった。

日記を書くということをすっかり忘れてしまったかのようだ。なにをどんな風に書こうかなんて考えもしない。書きすぎていたのだと思う。実家で過ごすことは何もかも違う。それらがいやになったから家を出たわけだが。人と暮らす方があってるのか、ひとりで暮らす方があってるのか、それはわからないがふたつは違うということだ。

今日は仕事は休み。13時からBSで「タクシー運転手」を見た。権力が市民に暴力をふるうというのが今のアメリカに重なりまくる。それだけじゃない、2月に見た「戦場で生まれた娘」だって思い起こした。こちらの方がより重なる気はする。報道記者の視点、娘がいるという視点が偶然にも絡みあう。作品は1980年の時代だが、現在の世界中あちこちがこの映画の景色に重なりうるのだと思える。

実家にいればそれだけでずいぶん能天気でいられるのだ。衣食住の安定ぶりといったらやばい。つまり一人暮らしがいかにどれだけせっぱ詰まった焦燥のなかにあるのかがよくわかる。どちらが幸福ということもない。でも安定よりはいつ消えてもおかしくないものが背中合わせにある方が生きてるスリルはある、それを楽しめることの良さがある、死ぬならその方が良い気がする。お気楽すぎてしまうのだ。

父があいかわらず母に言われた一言ですねて和室に籠城しているので、ヒトは66歳になってもそのようなことができるのだということに驚きを隠せないがそうゆうことなのだなと受け入れる。これは嘘みたいな本当の話で小説にでもなってたら笑える話になるのかもしれないが、もはやアホくさすぎてあきれるのも通り越して好きにやってれば、気がすむまでやっていたらいいのだ、その一連を共有させられるのはごめんなのだが。

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