出勤はしたが午前中でおわり。急にプリンターがちゃんと動作しなくなるも消耗部品交換で直りそうではある。お昼をデニーズに食べに行く。こないだよりは人がいた気がしたけど、でも変わらなかった気もする。相変わらず店内でかかっているドビュッシーがよく聞こえるのが異常に感じられる。1組でも帰ってしまうと、なんだかしんとする。ひとりで来てる人たちは仕事などなにかしら作業をしているようだ。いちばんよく来ている店舗なのもあり、平常時、というか、これまで、の売上のどれくらいになってしまうんだろうか、ということを思わずにいられない。平日のお昼どき、いろんな立場のいろんな人がさまざまにいる場所だった。それが今は、なんだか、それぞれが目立ちすぎてしまうようだ。月一配布の10パーオフクーポンを使う。会計でもらった紙のクーポンがキャラメルパンケーキ5食分無料だったので笑った。店員の方たちは各所こまめに消毒をしているようだった。がやがやとしたデニーズの空間が自分のなかで思い出されなつかしむ過去の風景として鳴っている。うそみたいだと思う。

帰り道で、ユニクロやスーパーの入ってる商業施設に寄ってもらう。ユニクロでは首のあたりにピッと瞬時に計るらしい体温計をあてられる。店内に入って、うわあー、と思うのは、ひさびさにお店ってものに来たーってかんじ。スーパー以外の、デニーズ以外の、洋服が売られている場所、人が自由に何かを選ぶ場所。初めてきた場所だけどユニクロという知っている店、そこでわきあがるなつかしさったらなかったなあ。抱きついて喜ぶほどのものじゃあないけれど。久しぶりに吸う空気のような気がした。買いたいものはTシャツで決まってて、サイズを確かめたかった。あと色。どのサイズが色がいいものか、など迷って迷ってそれで決める、こっちなんだ、と決める、といったような一連の行為がひどくなつかしかった。それは失われていた。けれどそれは完璧に祝福されることでもないという怯みがある。なぜならむやみに商品を手に取るという行為は推奨されないのではないかという、このコロナ禍によってはじめて手渡された認識事項があるからだ。そもそも店舗に来てること自体どうなんだってことになるのか?どうか?それがそもそもよくわからない。どう判断しろと?人はそれでも外に出たがる。

自分の人生は恥ずべきものだろうか。自分の人生というもの、人と比較して、比較したときはじめて浮き彫りにされてしまう。やりたいこととしてやってるわけではないし、胸を張れるわけでもなく、満足したり不満足してるわけでもなく、もっと学びを得てもっと試練をあびてもだも挑戦してできることを増やしたいわけでもなく、やれることを精一杯やってきたわけでもないしこれからやりたいことがあるわけでもない。私はいつも自分が恥ずかしいのだ。いつもずっとずっと恥ずかしい。恥ずかしいと思っているところに自分の貧しさを感じるのだと思う。