昼からmちゃんと会った。なんとなく行く前からなにか微妙な、なにするんだろうなに喋るんだろうといちいち何かがないとおかしい気になっていた。ただ会って、ファミレス行ったりカフェ入ったりしてただ話をするだけ、ということに魅力を感じていないんだなと思う。その話す内容も、もうLINEのやり取りで方がついたようだし、もしくは共感を得られず盛り上がりもせず立ち消えた話だったりして、残っているものなんて大してないんじゃないの?それ以上なんか話すことあるかな?とか考えてしまうのは私の悪い癖だろうか。なんかもっと、最近読んでる本の話とか、映画館で見た映画の話、配信で見たなにかの話、よかった展示や気になる展示、おもしろい音楽の話、とかでもできればいいんだけど、と思ってしまう自分がいた。だって私が話せることといったら、勢いよく前のめりに話せることといったら、そうゆうことで。そうゆう話ができたら面白いだろうなあと思ってしまう。mちゃんがそうゆう話をする相手ではないんだというのはわかってるけど、じゃあそれらの話をしないで私に何が話せるんだろうという気になってくる。向かい合っていて、なんだか、おもしろくない。そのことに虚しくなってしまう。他に面白い話もできないし、話を聞いて面白いリアクションもできない、なにも共有することがなくただ最近互いにそれぞれあったことを話して、聞いて、なんだかよくわからない。私に特に目新しい話はなく、ただ母親の愚痴を言っているだけの人。mちゃんは新しい職場での展望も、交流も楽しい楽しい、でも心残りがある前職で悩むこともまたそれは前向きな眼差しで、とにかく自分は楽しいということを伝えられるとなんだかまともに受け止められない。そうなんだ、よかったね、よかったね、よかったねと何度、どれほど返したらいいものか。そして会うたびに聞いている気がする今の仕事は給料もいいし、という発言が気にかかってしまうのだった。それは、私よりいい給料だということ?でも結局額は言わないから私にはちんぷんかんぷんわからない。良い、といっても前の仕事でいくらもらってたのかも知らないし。ただ率直に給料が良いことを嬉しくて何度も繰り返し言ってるんだろう、とは思う。だがそれを何度も聞くと、なんでそんなこと何度も言うんだろう、自慢したいんだろうか、優越感だろうか、などと色んな疑りをふくらませてしまう。友達の幸せを一緒になって喜びつづけてはあげられない自分がいる。疲れる自分がいる。そのことにもげんなりする。彼女ほど自分が現在の状況に喜んだり嬉しがって人に話をすることなんてあっただろうか。そんなものがない私はみじめなわびしい者ってレッテルを貼られるようだ。もっと楽しさに満ちた人生こそが輝かしくきらめいているんだよと教え諭されるようだ。私はそんなのないのに。そんなの必要としてないのに、侵される。そうじゃなくてもいいと思っているはずなのに、頭が狂う。

自分の生活の価値観が侵害されることが私はこわい。嫌だ。

私の生活は暗く、面白みのないものかもしれない。自分でもそう思っている。けれどそうしかならなかったことに自分でも諦めながら受け入れている。それ以上を望むことが自分には難しく、出来ないことだ。友達をつくる、やりとりをする、人と酒を飲む、人を誘う、初めての場所に行く、そうゆうことが年々できなくなっていく。でもよくわからない。自分に、自分のこの先の人生に、なにを期待するんだろうって。なにを新たに見ようとするんだろう。それより私は早く死にたいことに対して愚直になってしまう。