今になって改めてシロップの五十嵐さんの雑誌のインタビューとか読むと、もうなんかすごいぢくぢくとする。当時は当時でインタビューというものを読んでいたはずだけど、しかし、当時の私にどれだけのことが理解できていただろうかと思うと、なんのわかりもしていなかったんじゃないだろうかという気がする。それは歌の歌詞にしたって同じだけれど。んなこといったら今だってどうなのって話だが。
でもなんかなあ、やっぱり16.7の私ではわかっていなかったことが多すぎるような気がして。五十嵐さんが歌うこと、言っていることの重さみたいなものに私は気づけていなかったはずだ。それはわからなかったこと。私のまだ知らない場所だったはず。なんもわかってなかった。今だってわからないけれど、でも昔思っていたそれは無知で浅はかで軽々しかったんだなあと思うのだ。けれどそれでもシロップに惹かれた思いは今にいたるまでずっと変わらない。浅はかだろうとなんだろうと、救いになっていたことは確か。魚がつられるみたいにつられ離れられなかったのが確か。救いなんて、やすっぽいけど、やはり他に言葉はない気がするんだ。鳴っているだけで、こころの平穏が訪れたのだからそれは教会で聴く賛美歌みたいなイメージだなあ。美化しすぎ?
授業課題でショップロゴマークを作るというのがあり、それの関連でコラージュをするというので素材として雑誌をあさっていたらこんなことに。昔買った雑誌は大体処分してあるけれど、シロップとかモーサムとかキセルとかその他とってあるものもある。なんだろこんなこといいだしたらキリがないみたいに昔は何をわかっていたのかという話になってしまいそうなくらい昔の自分はただの脳味噌からからっぽなこどもだったにすぎないような気がしてきて恥ずかしいみたいな。どんどんどんどん16の私は遠くなってゆくなあ。そのうち他人みたいに思えてくるんかしら。