昨日の新聞に坂口安吾の記事があった。最近久しぶりに白痴などを読み返した。私が安吾を読んでみたのはシロップ五十嵐さんが昔のオフィシャルHPで発言していたからだと思うけど、あの発言以外にも何かのインタビューで安吾作品は小説よりエッセイものが好きだと言っていたと思う、それをよく覚えているんだけどはたしていったいなにでどこで言っていたのかはわからない。しかしそれだけを強烈に覚えている。
昨年の暮れころ、先輩と話していてかなりハッとさせられたことがあった。先輩が小学生のころから好きなバンドにずいぶん影響を受けている、それは例えば先輩自身の考え方、ようは価値観のようなところにおいてまでもという話の流れで、うわ、そしたら私もそうだ、めちゃくちゃそうだととても今更ながらに気付いた。なんかもうたぶん色んな年月が絡まりあってしまってわからなく、もう見えにくくなってしまっていたと思う。
私はシロップからの影響、安吾からの影響というのを結構受けての私になっているじゃないか、ということ。それらを知る前の自分がいてその自分とそれらが調和したから好きでいるような気になっていたけどいやそれは違うんじゃないかと。もちろん自分の中にそれらがひっかかるための要素はあったとしても、やはり15〜6くらいの私はまだまだからっぽであったろうと思う。そこにシロップや安吾の歌うこと言うこと描く世界ははじめて出会うものでありこれだという発見して掴んだものでありそこにダイブしていくような作業だったように思う。そもそもそのころからそれらを通して物事を考えたりするようになっていったのだから、そこが今に通じてくる私の言語回路の入り口であり基礎になったような気がする。
どのように自分のことやまわりのことを捉えて据えていくかというとき、それらに出会う前と出会ったあとではずいぶん違う気がする。というかそれらに出会ったことによって、以前のことも自分の中で腑に落ちたり、こうゆうことだと捉えられるようになっていったんだろう。それは良くもあり悪くもあるような、まあどちらでもなく年を重ねて生きていく上では避けられないことだったというだけかもしれないが。
こんなことは考えてみなくても明白だったはずだ。しかしいつの間にかそんなことはすっかり霧のなかだったなあ。それらがあまりに自分の中に腰を下ろしてしまっていたからだろうか。影響をうけた、ということはそういえばあまり考えたことがなかったかもしれない。16〜7の頃が自分にとってはかなりインパクトがあって、そこで見聞きし考えたこと考え方がかなり尾をひいてしまっているというのは認識していたし、むしろ厄介なくらいのものでそこから永遠に逃れられないような気もしたし、そのころの嫌なことも良いことも自分の今までの場面の中では記憶が鮮明な部分がかなり多くて他のどの時期と比較しても比較できない強さがある。若さと無知と痛々しさと閉じられた世界。その閉じられた世界で楽しむことも苦しむこともがあって、それはいちいち全てがはじめてだったんだろうなあ。それに自分の身体でむきあうということも。だから強烈だ。どれもすべて肌がびりびりするような出来事ばかりだったかもしれない。今思い返すとそう感じる。
自分が生まれてから育ってきた環境によってつくられた自分というのは、特にこどもといえる時までに身についたものはなによりもその後において一番の影響源なんだろうと思う。その後どんどん変わっていくものばかりとしてもそれでも大元はこどもの頃の感覚から離れられない、離れるにしたってどこから離れるかっていったら元があるはずなんだから。高校生の年齢のころにはよく考えた。なんで自分はこうなったのか、考えてみればこどもの頃からそうだったと筋はついていたと思う。そこに求めるしかないわけだ。だからそもそも生まれてきた時からだめなんだと行き着く。我ながらわかりやすいな。しかし16〜7の経験は自分の中で目まぐるしすぎていてずうっとそこに囚われてしまうような自分ができた。自分の人生においてそこに大部分の焦点があってしまってそれ以前なんてなんの価値も意味もないような、自分はその2.3年の間でできあがったんだというような感覚。しかし大学に入って後半になって人の作品みたり自分が制作をしていると、もっと以前のこどものころからの記憶や感覚というものが自分の中の意識、無意識を大きく占めてきていることに気付く、思い当たる、っていうかそれらは避けようがない。そうなるとたかが2〜3年のできごとなんてやっぱり重要とは言えるものではないんじゃないかと思え始める。そもそもそう思うこと自体に疑問であったし確信はなく、そんなこと言おうとすること自体はずかしいことのようにも思っていたからどこかではそうじゃないと否定できることに安心したような気さえする。思春期なんてものよりも以前のものがその思春期にも影響を与える大元なんだから、と過信し寄りかかり過去にしがみつくような格好になってしまうその10代のころに対してどこかで否定をしておきたい気持ちもあっただろう。だってそれはあまりにひとりよがりで自分の中だけでいつまでも色あせないような記憶で、なんだか自意識過剰のかたまりみたいなものだから。でも、どうしたってそれらを絶対視することをやめられない自分もいる、今もきっとずっと居続けている。
でもまあやっぱり影響を受けたという時点での話になればその年齢の時期というのは、自分にとって偉大なる地点だったんだろうと思う。なんていうのか自分の中ではそれを客観視して冷静に見れていないんじゃないかという疑りがあったり、そもそももっと自分が生きたうえでないと他と並列して語ることができないんじゃないかという問いもあったりして、そんなことになってる時点で特殊だ。そこでパックリ世界が割れたんだろう。それまでがすべて無かったことのようになったくらい、そのとき経験したものは新しかった。そこではじめて自分が考える主体になれたし、そんな自分を自覚するのははじめてだったはずだ。それは15のとき。だからそこが第二次成長期みたいな到達点であり出発点であったんだろうかな。
こうやって考えてみると自分のなかで答えははまっていておかしくなったことなにのに、実は食い違っていたんだなということになる。抜きんでた存在としてがっつり意識していたはずなのに、あまりにそのこと自体に執着しすぎていて抜きんでた所以?というか後ろ支えみたいなところの存在をすっとばしていたような。所以そのものといえるかは微妙。んむむでもその所以を所以たらしめたものみたいなものか。五十嵐さんの歌詞や安吾の書くものごとは自分の中ですごく納得できて腑におちてそうかそうかそうゆうことだみたいな、それまで自分の中にあったぼんやりした感覚がはっきりと地に足つくようなくっきりとした世界になったという感覚をまず最初に与えてくれてそれによって私はかなり言語を得たような、確実に影響を受けたと思うから、その言語がなければすべてがなかったような気はする。ああ話がわけわからなくなってきてやばい。
特別なんじゃないかと思っていたはずなのに、ある視点、その時その後の自分に強く影響を与えたという視点はすっぽり抜け落ちていたということ。自分の好き嫌いどうこうは意識してても影響を受けたとかはほんと考えたことなかったのかなあ。まあ単に言葉の違いにすぎないような気もするけど。でも影響を受けた、ということから考えることはやはり違う視点だ。好き嫌いだとやはりどこか自分のもともともってる意識や感覚、感性みたいなところで最終的に都合をつけてしまうけれど、影響を受けたというところでは影響をうけるもとはやはり好き嫌いと同じ出発になるかもしれないけど影響をうけた、て、からの話が広がりをもつのではないか。それを書いていったらまたややこしくなりそうだ。
しかし特別すぎたような気がして、でも特別なんかじゃないような自分にそんなもんは最初からないだろうというような気がするからやっかいだ。自分でそう思ったところで、自分の中だけでむなしいからだろう。そうむなしいんだ。だから最初からなんでもなかったことにしたいのに、そうはいかない意識がいる。まあ昔からいつまでもその記憶の中だけで一人あそんでいるような気はしていたから、それはそれで悪くないかと思うところだけれど。まあでももう20代も最後というところまできてみるとやっぱり未だにでかい存在感をはなっているのだからああもうこれはおおよそ一生つきあっていくのかもしれないというところまでは思えてきた。そうなんだなあ。
久しぶりにcoup d'etatのレコードかけてみたりして。introで入ってるピアノ曲がなー、きれいなんだよなー。これもyoutubeにあがってるけど。でもなんかこれをかけるという行為をすると、16にタイムスリップするような心地になるし、ipodで聞くCOPYにどうも違和感を感じるのMDじゃないからなんだろうなあと思う。何が違うなんてないはずなのに、でもあるんだ確かにはっきりとした手ごたえ、体の中にはいる、通るものとして違うんだ。実家の自分の部屋で音楽を聴いていると、いまだにそのころに戻るようなというか蘇るなのか、その時と同じ時なんじゃないかと思うことがある。まあ、同じ時といえば同じ時なのかもしれない。