めずらしく夜の寝つきがあまり良くなかった。でも一昨日もそうだったかもと思う。男の体が朝に勃起するのは自分にはない現象で、それは身に覚えがないというような感覚だ。比喩じゃないが、そもそも。でもそんなの結局個人の話、違いなのだろう。男と女で違いはもちろんあるが、個人と個人でもちろん当然違うのだ。男と女にあてはめて語ろうとするのはつまらない。でもよく使ってしまいもする。みんな解放されたらいいけど、そんなのはありえない。でも私は解放されたい。でも男と女は違いとしてある。朝ごはんを食べて家を出たのはもうお昼頃だったかも。アーツ千代田に行って友だちが見たいと言っていた展示、あいてた他のギャラリーもいくつか見る。ここはいつ来てもなんだか慣れなくて。それから乃木坂へ、新美術館でDomani展を見る。なんだか今年はかなりテーマが絞られていて、過去に派遣経験のある人たちを集めた展示になっていた。畠山直哉さんの写真がとても良かった。そんなのあたりまえなのか?いやそんなことじゃなくて、2019年撮影の写真たちがあったこと、そのことに目が覚めるようだった、目を覚さなければいけない気になった。宮城の仙台市で撮られた写真が3.4枚あった。それらは一体どこにそんな土地が?風景が?、私の知らない風景が仙台という土地にあるんだということがそれだけでショックで、そこは美しくて、だけれどなぜそこはそのようにしてあるのか、写真に切り取られたのか、その土地はなんなのだ、ということが印象的だった。また大きく伸ばされたプリントの木々が、何者であるのかが問われている。いやそんなことを思いめぐらすのは勝手なことで、一体どのようにしてこんな写真が撮れるのかなと思った。近くもなく遠くもなく、ただシャッターを切ったってこんな写真は撮れないでしょう?木はそこにあり、そこには空があり風があり大地があり光があり水がある。2階のカフェでケーキセットを食べた。展示についてあれこれ喋る。外のヘリポートからヘリが飛び立っていった。なんだかもうずっとこうしていられたら楽なんだけど、ってそれは去年名古屋でお茶してる時にも同じことを思ってたんだった。まるでまさに非日常的でばかげているみたいだ。それから代々木へ移動、もういっこギャラリーを見にいって友だちは知り合いに会ったりしていた。私はそうゆう輪に入れないなあと気後れするような感覚。内輪といえば内輪的で、でもそれはそうゆうコミュニティなのだから当然で、それに価値があるかどうかとかはまた別のこと、なのだろうか?ギャラリーを出る頃にはもうすっかり暗くて、とりあえず駅のホームの椅子でこのあとどうするか?を話し合う。あーだこーだののち、とりあえず東京駅に行くことにした。そして地下を歩いててすぐに見つけた茅乃舎で食べることに。何を食べるか?についていちいち保守か攻めてるかを秤にかけてる友だち。私は今年になって餅を食べていなくて食べたくて餅が入ったものですぐに決めたが、結局同じのを頼んでいた。おいしいねってことだけを始終言って、隣の売店で買い物もしていくこと。それぞれ買って、フリーズドライの味噌汁は4個パックだったので違う種類を買って2個ずつ交換した。それから友だちは新幹線の切符を買って、新幹線の改札までいつも通り見送って別れた。またね、元気でね、って、簡単に、さらさらと言って、友達は改札を通って少し進んだらもう一度振り返って互いに手を振る。これがいつもの決まった形式。そして友だちは人波に消えていく、それを最後まで確認しないうちに私はもう反対方向を向いて歩き出す。もう、すぐにでも忘れたいから。