液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

なんとなく体が疲れてて重たい。出かけようと思いながらもだらだらするいつもの土曜日恒例。母からのメールがうざったい。夕方になってようやく出かけるのと実家に泊まるのとの準備をした。実家の前に今日が最終日の原田祐規さんの展示を新宿のKEN NAKAHASHIへ見に行った。ピットイン行く時とここの展示に来る時のタイミングがばっちり合うといいのにと思う。原田さんのしている写真への行為はとても気になるが、それは心地よさというより心地悪さに由来するものだ。特にkanzan galleryで見たときの廃棄されるはずだった大量の写真の山に対して感じた気持ち悪さ、恐ろしさはこないだの表参道のギャラリーで人々がおもむろに触りまくっていたのが辛く感じられてしまった。19の時に買った一眼レフカメラで撮ってきたしょうもないスナップ写真が沢山、実家にはある。それらの将来、未来を見るかのようなのだ。私の写真もいつかこのように誰かに発見され、面白がられるのかもしれない。もしくは誰に見つかることもなくただの紙くずになっているのかもしれない。それらは撮った人や撮られた人にとっては意味あいを読み取れるだろうが、そうでない者にとってそれは一体何になりうるのだろうか?ただ笑われるのか、見向きもされないのか。そのように葬られる写真の未来。それを想像すると私は不安にかられるし、嫌な気持ちになる。だから原田さんはこの写真たちを一体どうしようとしているのかが気になっていた。今回の展示ではギャラリー内で原田さんが一枚一枚の写真を見つめていく姿、視線を捉えた映像作品だった。窓の外には新宿三丁目の景色、風、音があり、歩く人々の姿さえもある。私が見に行った時は映像のなかの時計は朝の9時過ぎだった。時に水を飲み、トイレに立つ原田さんが一枚ずつ写真を見ては裏返して置いていく。その一枚一枚に注がれる時間。サクサクと何枚も進んでしまうときもあれば、一枚を長く見ているときもある。それは見事にバラバラだった。私はそこにようやくやっと安心することができた気がした。見るということはこのように曖昧にうつろっている。沢山の写真は決して同じではない。一枚一枚が違う。そのことがこんなに淡々と映っていることによって示されている。そしてそれを鑑賞者の私たちは見ている。見えないものが見えるかのようだった。

40分くらい見てギャラリーを出る。最終日の終わりに近い時間、来てよかった。もっと早くに来流べきでもあったと思いつつ。それから実家へ。焼肉を食べにいくことに付き合う。ほんとは泊まるほどの用はないが、まあ、たまにはするべきなんだろうと思うことにした。猫たちが相変わらずの感じだけど忘れられてはいないようでなんだかんだ嬉しい。ジャズトゥナイトは休みでつまらん。