家族の気持ち悪さ、なぜこんなに感じるんだろう。自分が生まれ育った家族と、世間一般で理想的にイメージされている家族は剥離しているように思うが、そんなのは多くの家族でそうゆうものかもしれない。そう思うと、それはますます気持ち悪い。自分の家族のひとりひとりが気持ち悪い、そうゆう気がしてくる。自分も含めて。何も知らないで何も変わらずにいたならこんなこと思わなかったのかもしれない。もうそこには戻らない。家族というものは幻想にすぎなくて、私は何も知らない。そう思うと自分は家族というものに入れない気がする。辛抱がないだけかも。

 

downyの新譜で最も驚くのは正式にメンバー加入となったサンノバさんの存在だ。その音の存在、はいったいどうしてこんなことができるのだろうという戸惑いでもある。サンノバさんを加えて、よくぞこんなサウンドをつくったと思う。それこそもちろんロビンさんは沖縄にいて、データや電話でのやりとりという距離や時間をかけて、それででもたどり着かせたその意志は一体なんなんだ、と思う。アルバムを通して感じられるのは、これまでのdownyでありこれからのdownyであることの絡まりが明快でありながら複雑であることだ。サンノバさんがツイッターで今作を作るにあたって、僕は"TRAP"と"インダストリアル"と"青木裕"を強く意識しました。と書いていたのを見てものすごく驚いてしまったのだが、だが、それなのだと思った。しっかしそれをはっきりと言えてしまうサンノバさんがかっこよすぎてやばい。サンノバさんが裕さんをハッキリと意識しているからこそdownyになっているし、裕さんの音が失われていないことを感じさせるのだとすんなりわかる。それでいてハッキリと違いを感じさせるその存在によって新しいものが生まれたことに気づかされる。ある個人の音を意識をするという作業にはどれだけの手間や時間が積み重ねられたのだろうと思う。それが形となって聞こえているという結果に、ただ驚いてしまう。downyはただでさえライブがおそろしいのにきっとこの音源を再現してくるんだろうと思うとどう考えてもおそろしい。昼間からアルバムをヘッドホンで聞きながらぼろぼろ涙が止まらなくて私はイカれてるようでもあった。

裕さんの存在の強さ、音の強さはdownyを引っ張っていくものだったと思う。ライブでお客さんの視線を一番持っていってるのは裕さんであるようにいつも感じていた。裕さんは4人でステージに立ったときセンターに近いがドラマの秋山さんと同じくらい奥にひっこむ位置で椅子に座って弾いていた。だからこそ周りの人たちの視線も私の視線も遠近法みたいに視線が奥へと向かっているのをなんとなく感じていた。対バンのライブの時にはメンバー自らがセッティングに出てくるが、裕さんはいつも革っぽい黒いトートバッグを持っていた。その時からして裕さんは妙に色気があってミステリアスで見てはいけないものを見ずにはいられないという気がしていた。そんなひとつひとつを思いだす。何度も思いだす。downyのライブは何度見ても信じられないような曲の演奏だった。音源の再現性という意味で、再現を生で演奏するという意味で、独特の緊張とそれを楽しむ愉悦に包まれていた。なぜこれが演奏されているのか、音が詰まりすぎていて、息苦しくて理解が及ばなくてもおかしくないと思える。繊細さと凶暴さが突き放す。なぜこんな音楽を?この過酷さをどうして演奏しなければならないのか、疑問に思わないわけにはいかなかった。私の見知ってる人でdownyがすごく好きだという人はいない。みんな知ってるし認めてるとは思うけど。私もたぶん16の時に聞いてなかったら今でも好きということはなかったかもしれないと思う。downyはちょっと特殊すぎるなあと思う。例えばROVOがすごく開かれた音楽であるのを感じるのとは逆の存在としてdownyは誰しもが聞ける音域をやってないなあと思う。なんというかそれは、出来上がるものがそうなっているとしか言えない気がする。誰しにも届く音楽、届く先が多ければ多いほど良いのではない。自分が好きな人で他にそうゆうふうに、誰しもが聞けはしないんだろうと感じる人はいないような。それは偶然好きになるか、ならないか、というくらいの出来事のように思える。それで価値が決まるというわけではなく、その音楽に惹かれてしまうかどうかという振り子の時間がdownyはあまりにも一瞬のような、だから必然なのだと思う。私は他にdownyのような音の緊密な音楽を聞くかといえば聞いていない。私がdownyを好きでいれているのも、ほんのわずかな隙間から射す光が私の眼に届いてしまったからなのだといような、何か少しでもずれていれば私は好きでなんていられていないような気がする。downyのことはうまく言えない、だからこの先も何度も見なくては、よく知ろうと、つかもうとしなくてはと思わされていた。裕さんが亡くなって、それでもdownyを続けていこうという意志を持ったのは壮絶なことのように思えてならない。それで7枚目のこのアルバムを作ったことにはおそれを感じる。

裕さんのギタープレイをもう見ること聞くことができないことが悲しくて、信じられないと思ってしまう。私の頭でイメージされる裕さんはもう目の前に現れてはくれない。けれどそんなことはさておきdownyは存在している、存在し続けることを選んでいる。それを私は眼にしなければならないのだと思う。6月のツアー、果たしてできるのだろうか。やるとして、どのように対策を取れるのか、ということになるだろうか。

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