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朝ごはん。朝にお腹がすくようになってきた。

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昼ごはん。どうしても麺の盛り付けが下手だな。蒸し鶏、きゅうり、ミョウガ、ナスの酢醤油漬けでうどん。やはりナスがもっと食べられたい。

私が好きな音楽家の山本さんと芳垣さんはそれぞれに全然違う人だけどかろうじてROVOで一緒に演奏してて、たまには企画ものとして他でもセッションすることはあるし(この最近はない?ショロークラブあたりが最後?)同じ関西出身者だし学年で言えば同い年で近さは限りなくあるけど活動スタイルは全然違うし人間性もあたりまえに全然違う。ただ私はROVOから好きになってそのまま山本さんと芳垣さんそれぞれの音楽にもはまっていったことで同じで違うという感覚をこのふたりに当てはめて見るようになっていったと思う。好きになるなり方、好きでいるい方も違うといえば違うから、違うんだなあということを感じている。そこで大学生のとき、K先生とO先生を親として当てはめて見るとわかりやすい気がしていたことを思い出す。それは私なりの距離感の捉え方だったと思うけど、ふたりの先生の観察であり分析でありそのうえでどう付き合うかを考えたんだろう。K先生は母でO先生は父みたいなものだと。K先生は未婚、断然女子から相談をされやすく、ゼミ生は毎年必ず女子が多い。男子なら人懐こい人。K先生にとっては学生はうざくて面倒ばかりだがあらがいようがない可愛さがある、面倒なことに巻き込まれたくはないが放っておけないし話も聞かずにいられない、子どもみたいなもんなんだなと思っていた。男性的な声の大きさや権威的なものを振りかざす素ぶりも薄いから、体鍛えなあかんと言いつつ全然だしお喋り好きだし愚痴を吐きつつやさしいので中性的なものは感じていた。私はゼミ生ではないということで適切な距離を取れるのをいいことにその分自由で楽でいることができる気でいた。過干渉されないで済む。既婚で子供もいるO先生は逆に毎年絶対ゼミには男子が多かった。そのころは言葉を知らなかったがあきらかにマチズモな面によって男子学生を引きつけていただろう。先生はいくらか自覚的ではあっただろうが、どこまで意識化されていたかはわかりかねる。それを引き受けていた感はある。よりによって私はそのO先生のゼミを選んでいるわけだが、そこに私の性格?指向?があるんだろう。男子学生がO先生に惹かれてしまった結果はだいたい辛そうで、その点では男じゃなくてよかったと思うかもしれない。男にとっての父的存在に結局敵わないというのが構図としてありそうだった。それをわざわざ味わいに行くのか?でも私にとっても理解不明と不明でいいやという無理解さにおいて父的であった。そしてマチズモくそくらえ的な思いなんぞもあっただろう。男に欲される男に対しての興味、挑戦でもあったかも。ゼミを選ぶのに、自分が女であるということはきっと影響があった。まあO先生の授業が自分にとっては興味深かったとかがいちばん大きかったはずだけど。他の理由はほとんど隠れていたわけで。K先生にはなんでも気軽に言えてしまい、O先生には事前に話すことを考えていた。まあそれも慣れとして次第に溶解していくが。今からふりかえるとこのふたりの先生を母と父に置き換えて?とらえようとしていたことがなんかおもしろい。そして私は山本さんと芳垣さんもまた母と父におきかえてとらえようとしているのだった。山本さんは母で芳垣さんは父、わかりやすくおんなじで、山本さんにはかなり中性的なものを感じるというか男性的なものがうすく、芳垣さんはわりとマッチョだよねって感じだ。ここで言ってるマッチョはあんまり悪い意味が乗っかってない感じはある。ただ存在としてそうなりえてしまってる、それを全消ししろとは思わない。母の存在の人の方が多面性があり親しみやすく、父の存在の人の方は常に近づきすぎたくない距離がある。自分の中にもマッチョな面にこびたり好んだりする部分が絶対的にあるだろうと思う。そして自分の両親に対しての感覚がわりとそのまま反映されている。完全ではない。まあ私はあんまり女性と出会ってないんだよな、そこがちょっとだめなんじゃないかって気がするんだよな。どうなんだろう?最近頭にあったことを書いた。文藝2020秋号を読み始めてる。シスターフッド。おもしろい。