小学生の頃に自分が思っていたことそれ自体は取り出せても、なぜそう思っていたか、まではかなり不明瞭にならざるをえない。推測の域を出ない。推測に推測を重ね推測がやまない。けれど、それでも、そこを、大人になった今の自分がどう掬おうとするのか、それは現在の自分のことがらとして考える。

女には求められるコードが多すぎるのではないか。私の中にあった、ある、女への反発とはなんなのか。私はこんな女なんかじゃないんだから、こんな女とは違うんだから、いわゆる女になんて見られたくない、みたいなものって女という性別規範に対する反抗で、反抗しなくちゃいられなかったってことなんだなあと。でも同時に女の自覚はめちゃくちゃあって、内心踏みこまれまくってて、女であろうとするべきという事象に勇んで乗り出してもいてて。よく考えたらよくそれが同居しているなってもんだ。でもなんつうかそれしか生きる術がないっていうか。それは人によるだろうけど、男か女のふたつの選択しかなくて、どちらかであらねばならなくて、それを選びとって選び取ったからにはそれを煮詰めた濃度で誠心誠意請け負わなきゃいけないなら大変なことだ。でも性別によって定められる規範ってそんな感じだ。性別を生きるのか?違う。自分に性はあるけど、性別を生きたいわけじゃあない。そう思えばいい?

自分はかわいい女の子にはなれないのだと、それはよくよく理解していた。理解しすぎて断絶されたのかもしれない。かっこいい男の子がうらやましい。いまだにうらやましい。私もそんなふうに生まれたかった。なれないのは性別のせいなのか?性別に守られている?