「野球少女」の男性ばかりの中でひとり女性として存在する主人公の姿が男性ばかりの仕事現場の中で何か違う存在として居る女の自分をどう定義しようかとずっと考え続けてた自分の姿を重ね見たが、性別ではなく自分の姿で示して周りが受け取ってくれていったらいいと思ってる。

つい最近、会ったことのない銀行の人が私のことを女性なのにこの仕事しててすごいですねとか言ってたらしいのだがそれ言われちゃうと複雑なのだ。言うのはわからないでもないけど、でもそれは性別じゃなくて個人の違いにすぎないことだからと、私はもうそう考えているからなあ。

でもまあ現場行けば職人として仕事できてるかどうかだけでジャッジされると思っているし、自分に苦手なことやできないことがあってもそれは私が女だからというわけではない。女だから得意なことがあるとも思わない。ただ自分の能力を稼働させる、そのための努力、それが自分の拠り所。

男性監督が「女性と連帯できる男性像」を描いた映画としての『野球少女』、という試論(韓東賢) - 個人 - Yahoo!ニュース