月曜、現場終わりにあさいさんとはま寿司でお昼を食べた。先々週くらいから保険の件であさいさんと母とのやりとりがあったりして、話すか話すまいか迷いながら話さないでいいかと思っていた2月の下旬から母の電話を着信拒否にしている話をすることにした。いつかはしないとおかしいと言うか、すでになんかおかしいとバレ始めてきているからまあこの際もう話してしまってもいいか、と思ったのだ。ああなんか久しぶりにキーボードを連続して叩くから左手が変だ。こんな違和感今までにあったかな。誰にも言わないというか誰にも言えないようなことだ。それは詳細の部分の描写を伝えるのが難しいから、それが伝わりきらないなかで話しても相手には不可解な話にしか映らないだろう。それはたった一度きりその日だけに起こった出来事というより、長年積み重ね繰り返してきた同じような出来事で、それを37になった私が徹底的に許せなくなるに至った出来事といえる。その長年の積りは私の中にずっとありながら、言葉にされなかった。自覚を持っていなかった。それがなんなのかわかっていなかった。ようやく少しずつ自分の中で言葉で捉え始めてきているにすぎないものを人に伝えるのはとても難しい。でもそれでもやってみるか、とあさいさんに対しては思ったのだった。

時系列でこうゆうことがあって、そのときどうゆう気持ちで、これが嫌で、そして母から送られてきたメッセージの一言、「なんだよ」、という一言で完全にシャッターが下りてしまったこと、もうそうやって母に傷つけられるのが嫌なこと、「なんだよ」という一言に含まれ連なる様々な背景と文脈とが私にはあること、私が母をおかしいと思うことについてはこれまでにも話してきているせいか、あさいさんにはわりと話が通じているようだった。そしてあさいさんがこの間保険の話で母と会ったときの話をしてくれた。あさいさんが私のことを「お客さんにも人気がありますよ」と言ったら、母は「あの子は外面だけはいいから」と言っていたという。聞いてすぐにああまたそうやってそうゆうことを言うんだと思ったし、嫌な言葉だと思った。泣きたいと思った、でも泣かなかった。母がそうやって私のことをあさいさんの前で貶して言うのは以前からだし、他者の前で私を貶すのなんて子供の頃からの常套句みたいなものだ。それを当然のように聞いて育ってきたけど、それが及ぼした影響、悪影響については田房永子さんの本で書かれていたのを読んで納得した。でもなんだろう、今回は多分自分もその場に一緒にいて聞いていたらそんなにショックを受けなかったように思うのに、あさいさんの口から聞いたことでショックがでかかったようにも思う。私のいないところで私のことを言っている、私の悪口を母は言っているんだと言うことにやけに敏感に反応した。それにその一言は殊更悲しく突き刺さった。そもそも私は外面なんてよくない、外面だってよくない、と自分で自覚を持って自信を持って言える。外面良くすることなんて大してうまくできないのに外面良くした自分が気持ち悪いから、しているつもりはない。でも母にはそう見えているんだ。一体私のどうゆうところを、いつの、どんな時の、誰に対しての態度を見て母はそう思ったのか。どこかに出かけて一緒にいて、そばにいて、それでその時の私を外面は良いと評価していたんだと思うと、私は受け入れられないと思った。そして、もし外面は良いからと母が評価するのが私が働くようになって、あさいさんとも出逢って以降の私だとするなら、なぜならそれ以前の私は人が恐くて働くことも何もできずにいたんだから、その3年の時間のどこにも外面が良かった時なんてないと思うんだけど、それを知っているはずの母が、しかし私を外面は良いと評価するのは、一体どうゆうことか?それは私がその3年どれだけ辛くて苦しくてそこからどうにかして変わらなくちゃ変わらなくちゃと散々もがいてようやくまともに働けるようになって働くようになってからも人とコミュニケーションをどうとっていけばいいのか仕事柄で悩んで悩んでその都度試してようやく構築している今現在の私の態度を「外面だけは良いから」と評してしまえるのはあまりに狡猾な侮辱だと思えてならない。そのような人のことを私はどうして受け入れられようか?なんでそんなことをたやすく他人に言えてしまうんだろう。今だって現場でよく知らない人たちと話すことが苦手で、都度びくびくする気持ちも消えずこうすれば良かったのかどうすれば良かったのかを考える。今度はこうゆうふうに返答するようにしようと思っては、それを忘れないようしないとと思う。決して特別愛想よくすることはできなくても、良い仕事関係が築かれる程度のことはできるように自分も気をつけないといけないと思っている。でも母はそんなこと一切知らない。仕事の相談なんて母にしたことがない。他の相談もほとんどしたことがない。いわゆる話を聞いてもらおうなんてそもそもない。母はそんなことも何も知らず、普段の私の態度から外面は良いからという解釈をしている、そのことに今日になって泣き崩れた。2日の時間があいた。一昨日も昨日もその嫌な言葉は身体を揺さぶっていた、でも大した一言じゃない、よくある形容として言っただけだと捉えることだってできる。それでいい。でも、そこに大きな傷つきを受けた自分がいることも確かだった。仕事から帰宅して、パソコンでニトリのホームページで3本線の記号に矢印を置いている時、急に悲しさも悔しさも怒りもが一緒くたになってやってきた。

いつまでも母の言葉に傷つけられる。母は私を幼い子供のように、小学生であるかのように、叱る態度に私には見える。自分自身が小学生の頃の身体になったように感じているし、小学生の頃に叱られていた光景を重ね写して見ている。その頃と同じように母は私を見捨てるような言葉を吐く。でも私はもう37なのだ。その言葉は見捨てられ不安を煽っていると受け取れる。幼い子には親として母として何を言ってもいい、傷つけてもいい、教育であり指導であり聞き分けがない子供を親がしつけているのだからといった態度。それは親が子を自分の思い通りにさせるため、親の感情で子を振り回しているのだと思う。幼い子供にとっては親が全てだから、生きることの全ては親に支えられるか見てられ不安を煽られる恐怖感はとてつもなく効果がある。でももう今の私にはもうそんなことで傷つけられたくない。傷つく自分は未だいる。けれど何度も何度も嫌な思いをさせられて、もうそれを繰り返されたくない。私はそれを拒否してこれからを生きなくちゃならない。もう嫌だ。もう終わりにしたい。

私は母を許せないのだ。それはこの近年でどんどん高まってきていた。歳をとるせいか、昔の母の言動が次々にあれこれ悪いイメージとして再認識されてしまう。もっと違う育てられ方だったら、というifを繰り返し思ってしまうようになった。それが着信拒否の設定をした今、それをいつ解除するのかにかかっている。どう許したらいいのかわからない。どのような気持ちで許すという行為をすればいいのか。許さないという態度で居続けることは可能なのか?許されるのか?それを自分はできるのか、そう同時に疑問に思う。許さないとは一体どうゆうことだ。母がこわい。私は母の期待に何ひとつそわなかったから、実現しなかったから、さぞガッカリしているんだろう。でもそれでも母なりに納得しようともしているかもしれない。それでも未だ母親という役割で娘に何かを要求してくる。出来損ないの娘が恥ずかしいのなら、もういなかったことにしてほしい。私はなんの期待にも応えられないのだから。もう期待しないで、と母に言ったのはいつだったっけ。最近になって、そんなことを言うのはひどい娘なのかもしれないと思うようになった。けれど言わずにいられなかった。私は何も、母の望むようなものは達成できないよ。どんな輝かしい景色も見せてあげられないよ。そんな私を母は受け入れられないんだろう。このような私では、母は好ましく思わないのだ。私を肯定なんてしてくれない。否定しかない。ああだから私も自分に否定ばかりするんだ、親の考えが子にもそのまま繋がっているんだとあまりにクリアにわかった。