日記を書かないことに対して罪悪感や、焦りや不安を持たないでいるというのは初めてのことなのではないか。今までにも書かないでいた時期があった。でもいつもずっと日記のことが頭にあった。書かないでいられるわけがなかった。それが自分のよりかかれる柱としてあった。でもそれが去年から消えている。日記を書かないでいて、それでいてのっぺらぼうで生きていられている。書かなくちゃ、という突き上げが少しもない。、ということについて書こうと何度も思った。だけど書くページを開くことができないと思った。書きたくないという方があった。書くことに魅力を感じなくなっていた。おそろしいことであり、やはりのっぺらぼうな自分があった。平気だった。日記がなくて、平気。日記なんてつけたくないとさえ思った。何もおもしろくなかった。

それはなんなのか。何度も考え、その度に思い当たるような思いつきがあった。でも何かはっきりこれだと言えるような出来事や変化が起こったというわけではないからどれもがただの予想で想像にすぎない。そのどれもであるようだし、どれでもないようだし。ぼんやり、ふんわりとしか、自分でも当てがつかないのだった。たとえば、書くことは自分を自分で知る手掛かりのキッカケとなっていた。もうそんなことをしたくなくなったのではないか。もう本当にだからそれは自分の無価値さを全面的に抱きしめて受け入れられるようになってしまった証明のようだ。どうなんだろう。わからない。ただそうして考えていった時、思い当たるのはやはりコロナで、コロナの期間で自分は変わってしまったのか、しまったんだろうということにぶつかる。でもそれをじゃあ以前に戻そうとかも思えないんだ。もう戻れない。戻りたいとも思っていない。そんな自分に自分でがっかりもするし、諦めて受け入れもする。自分はどうしてこんなにも何でもかんでも諦めて受け入れる人になっているんだろう。私を私をあまりに責め続けすぎたんじゃないか、と思う。けなし、いじめ続けた。その結果がこれか、と思うと、全て間違いだったと現在の私が思う。このようにしか生きられなかった自分、というのは、なんて味気なく面白みのないぺらぺらな人を作り上げてしまったんだろう。まさか到達点がこんなものになるんだったとは、それは、なぜか自分でも思いもよらなかったことに思う。

言葉にして、書いて、残して、ということに、沸き立てられなくなったんだ。それは、以前はそうだった、そういうものがあったな、と思いあたることで言えることだ。もう何もない。自分には何も残っていない。ただそうゆう感じ。大事なものが何もない。いつ死んだってオーケーなものでいたい。