液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

村上春樹の短編小説を市川準監督が映画化したもの。主演はイッセー尾形宮沢りえ。ナレーションに西島秀俊イッセー尾形トニー滝谷と、その父親滝谷省三朗を、宮沢りえはトニーの恋人〜妻のA子と、A子の死後に現れるB子をそれぞれ演じている。
そんなに期待もしていなかった映画。ただ宮沢りえのきれいさが眺められれば十分だと思っていた。そうしたら、予想以上にくすぐったいような面白さを感じられることが出来て、おもしろかった。トニーの父親の話から始まって、どこまでも絵巻物のように進んでいく時系列。そんな技法はなかなか面白かった。トニーの小学生だか中学生くらいの役を演じていた男の子はなかなか良かった。雰囲気が醸し出されていて、とても。
しかしイッセー尾形が演じる美大生は、あれは思わず笑うところだろう。いくらなんでも無理を感じる。けれどそんなことも淡々と横に進むこの映画の中ではそれがあまり意味を持たないような気がしたし、なんてゆうか、そんな無駄なことを考える意味はないような気がした。
宮沢りえにはあまり美しいという言葉は思いつかない。それよりも、その存在さに言葉を失ってただただ息を呑んでその姿に夢を見るようなだけになってしまう気がした。A子はどんな服も彼女のために作られたかのように服を着ている。実際映画内で宮沢りえはどんな服とも見事にとけあっていた。ショートケーキの苺と生クリームみたいな関係みたいに。あまりに融合していて、驚くばかりだった。なんなんだろう一体これはと思った。すごい。服を着こなす人はきっといくらでもいる。モデルという職業の人たちは沢山いる。けれど、そうゆう人たちとはやはり全然違ったものを感じるというのは、やはり彼女が演じる人であるからなのか。ものすごい存在さを感じずにいられなかった。それはイッセー尾形も同様に、存在さが大きく残された。イッセー尾形は主演でいて主演じゃないようでいて主演だった。
トニーが不安がっていた。孤独を知っているだけに、孤独でなくなった時、孤独を怖れると。結局それは数ヶ月で薄れたとか言っていたが。その言葉がやけに新鮮だった。新鮮なんかじゃないのに。私は同じようなことを思っていたことがある。今は怖れと言うより不思議であるけれど。ずっと暗いようなところにいたはずが、それがいつまでも続くものだと思っていたものが、それがそうではなくなった時、凄く不安だった。まるで現実は夢なのではないかと。いつ夢から覚める日が来るのだろうかと。でも、いまだ、特別覚める日は来ていない。とにかくそうやって、トニーが言っていたことは以前から自分でも思っていたことだから、新しい発見ではなかったはずだ。けれど、淡々と客観的に見るように進むこの映画においてのその発言は、あまりに宇宙からのメッセージのようだった。
ナレーションによる説明が多い。それはそれで私は良かったように思う。わからない、そうしていない映画だって多くあるだろうけど、この映画ではひたすら一本の直線をたどらされていくことになる。途中で、これでどう終わりを迎えるというのだろうかと思った。しかし終わりまでゆっくりと進み続ける直線はズレることがなく、何の邪念もないまますんなりと終わりを受け入れることが出来た。なにか、ミントのような後味で終われた。美術セットが良かったな。木曜日に見た映画。