あのころ、あのころ、あのころは、あのころ、そうそればかり。あのころから時は止まらず常に動いているというのに、いつどの現在の私もがあのころを頭に描いている。あのころとは、あのころのことで、数字による規則的な範囲のことではなくて、ただあのころという名の下にあった日々。私の日々。若かった私の日々。16歳や17歳の私の日々。それからいくら時がたってあのころから離れたように見えても、あのころのことが私の目から耳から脳みそから身体の全感覚から香だって、それにめくらまされる。私は常に更新される現在とあのころとを切り離して考えることが出来ない。常に行進する現在とあのころとはいつも結ばれているらしい必ず強くハッキリ誰にも邪魔させないほどに。

あのころ、なんていうものはいくらでもあるだろう。しかし、私が引きずり続けているあのころはたったひとつであり、それは、あのころのことでしかない。どうして沢山のあのころの中から私はひとつのそれしか選び取らず、それだけを選び取っているのだろう。あのころだけが重要であり、他のあのころはどうでもいいことなのかもしれない。私はあのころに支配されている。あのころに定められた価値が私を揺るがさない。あのころと現在は離れている。しばし遠く、離れている。けれど、あのころは常に勢いよく生きている。しっかりと根を張り、強い青空の刺すうえに立ち、気持ちよさそうに風になびいている。そうやっていつだって私をそこに立ち止まらせている。私はその発色に目玉を染めあげ、その揺れる仕草に身体がのっとられる。まるでそんな風。

あのころがあのころでとどまっていない。あのころは常に現在の私を脅かす。あのころの私は現在のわたし、なのだろうか。現在の私は常にあのころのわたし、なのかもしれない。もしかしたらそうなのかもしれない。現在のわたしなんていうものは全て嘘ニセモノ偽りでほんのひとつまみほどしかなくて、両手ですくうほとんどはあのころのわたしなのかもしれない。あのころの私でしかないというのだろうか。あのころだけの私。生まれてからあのころに到達したまでの私が、死ぬまでの私のすべて。そうなのかもしれない。そう思うと、なぜぞっとしたのだろうか。わからない。

あのころに縛られていると思う。どうして現在があり、過去としてのあのころが存在してしまうものか。あのころとは過去であり現在である。しかし、それは過去におかねばならない、過去と見なさなければならないと言われるものの気がする。過去は過去として生きねばならない。過去を現在として見つめるということには、一体何が発生し、何が含まれ、きっととても強いエネルギーと戦うことなのではないか。