液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない




7月が終わる。一年が早いなぁとか言うことはたやすく口にしてはならない気がやはりしている。このことは以前どこかで書いた気がする。なんかその中身を自分でよく把握してもいないくせにそれを言うのはなんか根本的におかしい感じが、違和感がするのだ。自分でそう思っておきながら、そのあとに、なぜそう思う?なにがそう思う?なにをもってして?その発言にはなにがある?うんぬんと考え始めなければならない。なのであまりこころで思わぬよう、抑止しているという、なんともあほらしい、無能なひまじんだからこそと思う。昔からそうゆうものだ。



ハローワークへ通って就職活動をする日々。私にはもうそれしかないと思った。一人で考えていく先には悪いことしか起こらず、もう何もかもが鈍り腐り閉ざしていくことしか見当たらなくなった。息苦しさの連続をしていたところで、現実を結局は見ている。今死なないのならば他の何かを出さねばならない。私よりも善い人間はきっとあふれている。どんな人間もそう見える。汚い人間もそれらしくせねばいけない。何かを決意すること。ただそれだけなのだと後になってなんとなくわかる。
通っては常に苦悩してしまう。自分がしたいと思うようなことが明確になり、同時にそれ以外への溢れ出るずぶとい嫌悪感。自分に嘘をつくことは難しい。できるが、それは体調以上に気持ち悪く、長く深い。そして何がしたいのかもわからなくなってくる。他のものものが入ってくる。またして自分から自分が剥がれおちていくがそれは止められず。おそらく見て見ぬふりなのではないか。なにが嘘で本当で意識で無意識なのか、なんにもなくなってしまう。もとからぜんぶ、その場の雰囲気にすぎなかったのかもしれないと思う。雰囲気で生きているものなのかもしれない。
そしてあからさまに現れる欲望のようなもの。展覧会などへ足をはこぶ。アーティストトークの類がある日を狙って足を運ぶ。何かを得ようとする。何かを得られるのではないかと期待する。私は常に何かを期待している。他者に。でもやはり何もないと思う。ただ自分が存在することを重い体に知る。
オペラシティギャラリーでは「トレース・エレメンツ ─ 日豪の写真メディアにおける精神と記憶」を見た。志賀理江子がさいしょにあり、すごく良かった。闇と光と人間がとりまく空間は未来か過去かどちらだろうと思うも、実際取っているのは現在であり、すごくおもしろい。古屋誠一の写真はすごくよかった。やっとはじめてプリント展示されているものを見れた。100枚近い写真が時系列をはずして並べられているのだが、その写真の配置のリズムや一枚一枚の写真にぐらつかされる。そしてアーティストトークリレーを聞いた。ギャラリー内でアーティストとキュレーターが出品作についてリレー形式で語る。古屋誠一がいたのでうれしい。8月には単独でのトークの時間があるのでそれにも足を運びたい。
東京都写真美術館では「世界報道写真展2008」と「ヴィジョンズ オブ アメリカ」を見た。報道写真展は逃し続け、はじめて見た。どの写真も大きく引き伸ばされていて、目に大きく入り、なかなか圧倒される。長居健司さんの映像もあった。スペインやポルトガルの写真が興味深かった。また、賞の部門が10くらいあって、アートやスポーツという部門もあって、おもしろかった。それにしてもこのコンテストの仕組みが気になる。そして、最前線で活躍する若手国際カメラマンによるトークセッションを聞く。3人の男性。これがまたおもしろかった。どんなふうにして写真を撮っていくのか、またそれをどう売るか、なぜ写真か、など実際の生の声を聞くという貴重な体験。3人とも静かに強いたたずまいの印象を受ける。
東京都庭園美術館では「船越桂 夏の邸宅 アール・デコ空間と彫刻、ドローイング、版画」を見る。庭園美術館は初めてだがテレビでも見てた通りというか、さすがすごくすてき。テレビで見るより一つ一つの部屋、空間がぎゅっと感じられて、やっぱテレビじゃこの空間はつくれないなあと思う。そしてやはり副館長さんとの対談形式講演会を聴く。テレビなどでやはり見たことはあったが、生で声を聞くと、とてもするするとやらかく、あ、作品そのものみたいと感じた。舟越さんの作る最近の作品には乳房がついていることがおおく、その乳房が非常に美しくて、卑猥な感じも暴力さも崇高さもエロティックというようなものも違う、他で感じたことのない、とても不思議なおおきな魅力を感じる。美しいという頂のようなものよりも、ふーっと体内にはいってくる感じで、触りたいって言うよりも見つめていたいっていうかんじで、だからって聖母みたいなかんじでもなくて、そばにあってほしいという感じで、やはりそれこそ舟越さんの作る彫刻なのだと思う。それで講演会のとき、舟越さんが、乳房の件にふれて、その重さのない声の流れで「やはりとてもうつくしいものだとおもうんですね」というふうに言った。そのとき、舟越さんの作る乳房に自分が感じるものがあることの理由が分かった気がした。そのときの舟越さんの声、音のながれがそれを表していた。こういう風に語る人が作るそれは、あんな風にあらわれるものなのだ。ああやっぱり人の生の声を聞くことは大切だと思った。



何年ぶりかの地元の花火大会。色々な事を思い出しては錯乱する。大学生の頃、あまり大学生らしいことはしない方だったと思う。向こうで花火を見たことはない。地元のにおい。それは現在私が最も苦手とする。