20日の土曜日は初台のオペラシティギャラリーで開催中のトレース・エレメンツにあわせた、出品作家である志賀理江子のアーティストトークを聞きに行ったものの、聞けずじまいに終わった。先月に古屋誠一を聞きに行った時はそんなに人が混む様子もなかったから同じ調子で行ったら、ああそこはちがった、さすが今年度木村伊兵衛賞受賞者、ということか、14時に着いたらすでにいっぱいですと断られてしまった。私より前にも数人断られていたから、も、こりゃどうしようもないなとさっさとあきらめる。志賀理江子の写真はとてもふしぎな魔力のような魅力を感じるので、ぜひともその写真の作り方や制作過程等々について聞きたいと思っていたので、とても残念ではある。うーん、もっとちゃんと早く行くべきだったとまともに反省。今度は写真美術館で新作の展示があるようなのでそちらをまた楽しみとする。そういえば古屋誠一が再来年に写美で個人の展示をすると言っていた!アーティストトークのときに。それはそれはとても楽しみ。
初台を出て新宿でだし茶漬けを食べ池袋のリブロへ久しぶりに行きその品揃えに改めてうなる。あ、やっぱリブロはちゃんとでかかった、と認識する。まぁジュンク堂本店へ行くかどうか迷うけどもうどっちでもいいやという気になる。本当は記憶に関する本を探したかったはずが、先に社会・人文系の売場の心理系のコーナーでその充実さに目を奪われ色々迷った挙句に本を買う。


家族の痕跡―いちばん最後に残るもの

家族の痕跡―いちばん最後に残るもの


この妙に感じる表紙絵の感じはとまどったが、全体的に私が求めていた事柄が書かれている感じだったので購入。一人暮らしをして後、家族と暮らしていて、どうしてこんなにこの「家」というものが息苦しくてたまらないのか、どうすればいいのか、どうすればいいのかわからずひたすら延々と悪循環を漂っていて、理想はわかっているのにそれをなしえない自分に苛立ちその苛立ちがまた家族、家へ向けられるという状況から自分の内へと責め返り闇淵へもぐってしまうこの成り立ちはどうにかうまいこと少しでも解消できないものなのだろうかとずっと思っていた。この本で解消されるということもないだろうが、はあああそうゆう仕組みがこの家族というものの中では起こりえているんだな!という発見により(それは一著者の解釈であり、それが絶対でもないだろうけど、読んで自分がそれを受け入れるならばとりあえず現時点ではそれでいいと思うというようなこと)、自分の気持ちを少しはなだめ落ち着かせることに役立つ気がする。自分の家族、家だけに限らず、それはつまり日本の近代の家族のありようについて分かることができるし、著者の専門でもあるひきこもりなどについても同時に読み取って進んでいくので色々とおもしろい。そして時々とっぴな(べつにそんなことないのかもしれないけど)意見が出てきて、ああそうゆう見方もあるのか、と思うと改めて自分の狭く狭くもっていっている自分の視点ははたして正しいものかどうかと疑いを持つ思いが芽生えてくる。もっとしっかり自分で考えねばいけないだろうと思う。
本文の中でもいくつか興味深い解釈があり、そのなかでもうちの家にドンピシャなとこがあり、つまりこれは私の家だけで起こっている問題ではないんだなと思うと日本の家族というものの広がりを認識し、家族というこんなやっかいな仕組みはめんどうなものだなと思いつつも皆それを共有し維持することで生きているんだからきっとそれだけどうしようもなく良くも悪くも大事にならざるをえないもんなんだなぁと思った。そうこうやって少しでも家族というものを少し距離を取って眺められるようになっただけ、ほんのほんの少し余裕が生まれたんじゃないかと思いたい。

母親から娘へと向けられた「無条件の承認」なるものは、その基底に性的依存としての女性身体を共有することからもたらされる嫌悪感をはらんでおり、それが愛情を条件付きのものにする。ひきこもりや摂食障害事例の場合、表向きはその生活態度に対して寛大な姿勢を示しながらも、ふとしたことで罵声を浴びせるような対応に陥りがちな母親は少なくない。そうした娘の側も、母親に全面的に依存しつつも、女性身体を通じて同一化を促さずにはおかない母親を嫌悪し、その母親へと連なるほかはない、みずからの身体をも嫌悪する。

ここの感じは感嘆してしまった。

8月にノートに記していた日記のようなものを見返したら、なんかものすごい悪の渦が漂っていて自分で読み返してその陰湿さにひく。こうゆうものは常にそうだと思う。その時の気迫というものは手に負えない。ずっと家族から孤立していく感じがしていた。一人で勝手に何かを作り出しそれを抱え込んだ思いでいて、なぜかそのこと自体に怒りを抱え込むようになり、それを意味不明なままで外へ発散してしまうことにより結局は自分自身への恥となり、そんなわがままな自己中心的なやりかたしかできない自分に対して苛立つし軽蔑を覚えるし、それでいて外野からは当たり前にこちらのことはなにも分からないわけで、私も幼いころからの習性でか何も喋ろうとしないし常に閉ざすことでしか対応ができなくて、向こうへの嫌悪感も募るばかりで、いったいどうしてこんなことになってしまうんだろうと考えた。ある時はっと気付いたことがある。きっと私は許されることを待ち望んでいる。私は高校を中退したことを起源として、自分はすべて悪と信じ込んで今にまで生きてきて、その考えをどうにも振り落とすことは出来ていない。常にずっとその前後の自分のしてきたことを否定し、それらによって「家」に大きな迷惑をかけつづけており、つまり自分は悪い事をした人間だからずっと家に腰を低くしてつきあわなければならないと無意識に考えていた、対応していた。だから必死に許されえるためにいろんなことで尽くそうと、償おうとする。なるべくなるべく、そう努力をする。しかし同時にそれは絶対的に許されないものとも信じていたのだ。それは繰り返し自分を悪とし自分の存在が悪いものであったと唱える行為によって常に補完され更新されているからと思う。許されるよう努力をしても、償われない気がした。そんな個人の思いはどこにも届かないような気がした。きっとずっと許されないものなのだと思った。それでも私は常に許されようとしている。そうゆう自分の中での矛盾、許されたい、しかし許されないことはわかってる、でも許されたい、でも誰も許してくれない、どうしてだれも許してくれないのだろうという行き場のない、もしくは自分にうちあてるしかない思いの構造がとんでもなく嫌になった。こんなに気持ちの悪いものを私は抱え、体現してしまっていたのかと思うと、虚脱感を覚えるようだった。セミの抜け殻のようになりたいと思った。
未だにやはり家との付き合いかたは難しいと感じる。休日になると一層に増し、常に自分でもどうすればいいのか、落ち着かなければいけないと思うほど余計に不安になり空回りし続けている。それは現状の、自分自身の立ち位置がないせいでもあると思う。逃げ回っているばかりとも思う。家に帰ってくる前に考えていた。家族との関係がきっと一番の問題になるんだろうなと。しかし予想以上以上なかんじであるのでこりゃすごい、と思う。

できればやはり日記を毎日書けた方がいいと思う。でもこの環境ではそれはすんなりとはいかないし、それに適応していくしかないのかな。くふう。どうもやはり自分の内だけで考えていても次にはなかなかつながっていかない感じがする。だから怠ってはいけないなぁと思う。


とりあえず昨日また斎藤環の本を購入。発売時から気になっていたけど今は別にラカン必要じゃないだろーと見送り続けてきたものの、お、今かも、と思って購入。カフカの審判を読み途中であるというのに。しかし、カフカはやっぱりすごくおもしろい。ドドンっ!とつきつけられる。



そしてまたずいぶん遅くなったが放浪息子2巻をこないだ買って、むほーと存分に思う。やっぴゃっぱいいないいないいな。たまらなくいい。なんなんだこの状態。青い花の4巻も来月出るらしく、楽しみだな。この人の絵は線がとてもすっとしているとこが爽快感あったりして、あと背景をすっとなくしているコマがつづくのもとても好き。登場人物のあたまんなかが見えるような、体験してしまうかのようなかんじがある。それと表紙とかで水彩の着色をしたかんじもすごく好きだ。

放浪息子(2) (BEAM COMIX)

放浪息子(2) (BEAM COMIX)