BS2で再放送していたプラネテスがついにおわってしまった。これの前に放送していた蟲師からの流れで見始めたけれど、これまたもんのすごく面白くて、また回を重ねていった後半には人間の内面への深いえぐり方がとても迫力ある映像、台詞で描かれていて、見ていておもわずかたまってしまうというか、動けなくなるような人間の、社会の重みをつきつけられる大人向けなアニメだった。いやーこれはすごいおもしろかったなぁ…毎週すごいアニメだなぁとうなってしまった。前半から一話一話における内容の良さ、そして回を重ねることで登場人物たちの各個人の背景がしっかりと骨太になってきて(その中で登場人物たちにとても親近感みたいのを覚えていくようになる)、個人だけでなく社会、地球、国の大きな背景がきっちり絡めてあって、2075年の宇宙を舞台にした物語でありながら、それは単純に非現実的な世界ではなく、現在からみても地続きの人間の物語としてすっと入ってきて、ありありとそこに起こる事柄と現在とを繋げ考えさせられることになる。原作の漫画もこれはこれは読んでみたい。
そしてNHK教育の方では獣の奏者エリンを見ていて、こちらはなぜか毎回泣いてしまうという。途中から見始めたのだけど、これがまた色々おもしろい。アニメで見ると、一番驚き興味を引くのは王獣という動物のこれまでに見たことのないようなその見た目。これは、かなり衝撃的で、なかなか見なれなかった。
そして最近ふりかえってみると私は業田良家の漫画がかなり好きなんだということに気がついた。ビッグコミックで読んでいると、基本的に作家名とかぜんぜん意識していないから(小学生のころからの習慣みたいなもの)、昔から名前もわかってなかったんだけど、最近作品が映画化されたりで名前と漫画が一致して、昔よんでたあれやそれは業田良家の作品だったんだなあとようやくわかった。今連載中の神様物語も相当おもしろいけど(楽しみでしょうがない)、男の操や福屋福助もおもしろがって読んでたのを覚えている。
いやはや日本のアニメや漫画はえらいなあ。て、外国のものをあまり知らないんだけど。



思うところあって、卒業制作のノートというか論文というかを見返してみた。はずかしくて開けない、まず。きついな、かこを見るというのは…。開いても、眼が文字を読み取ろうとしない。あいたたた…と思いながら、どんなこと書いたかはもうよく覚えてないんだけど読めない気持ちをやりこめつつちらちらっと眼をむけてみた。ほほう、ちゃんと筋が通って書けているじゃないの、と、我ながら感心。なんかもっと筋のない言いたい放題のばらばらした、わかりにくいことを書いているイメージがあったのだが、いやまあ回りくどい言い方かもしれないがちゃんと抜け目なく言うべきことは言ってあるような。えらいえらい、と過去の自分を軽々しくほめる。なんかしかし、ものすごい過去の発掘物でも読んでるような気分だったな。とても深い箱みたいだ。
卒業制作の中でとりわけ学びえたことは、時間とともに考え続けることの重要性、意味とかいうところだった。それがすべて結果にもなった。まあでもそんなんは時間の経過後でないとうなずきがたいからむずかしいなとも思う。でも時間の経過からえられる確実性はとてもデカイ。時間とは眼に見えず言葉を与えているにすぎない。しかしそれを時間と呼ぶので、時間というものをなんとか捉える。まあ、ただの期間であり、空間だ。時間は空間だな。空間をへて意識がうまれる。意識は必要なものなんだろうか?とふと思う。まだよくわからない。意識とは発見であり認識であって、それは言葉の世界で、それによって世界はよりはっきりするようであり、またより意味のないものになるような気もする。なんだか邪魔な思考のかんじ。
まあしかし見返してみてそうかそうかと何かをなんとなく納得したような。



今年最後の読書はトルストイアンナ・カレーニナ。面白すぎるのと痛すぎるのと、なんだかノロウィルスにかかって水みたいな液体物しか吐けなかったとき(一人暮らしで12月の寒い時、バスからおりて耐えきれず道端の溝に吐いたという)のあの苦みを思い出すので、後半に入ってまだおわらんのか…とさえ思いながら、3巻の半分くらいのところ。トルストイは初めて読む。すすすごいな。いったいどうしてこんなに人間の表も裏も見えているのか。まあ漱石とか読んでてもそうゆう点にびっくりせずにいられないんだけど、トルストイはより鮮明な言葉で人間を描写して裏付けているのでこわい。それでやっぱりロシア人の名前はおもしろくてかわいくっていいなあと影響を受けやすい私は、11月に生まれた子猫たちに、性別もわからないまま、アリョーシャとカーニャと名づけてみた。
今年は図書館に行きつづけたな。よく本を読みました。いろいろ。その中での衝撃はカポーティカズオ・イシグロかなぁ。村上作品もたくさん読んでたのしんだ。