液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

はやく死にたいなあと思うことが止むことはない。なぜその時はまだ訪れないのか。ずっと待ってるのに。でもずっと希望は捨ててない。3分後でも明日でも明後日でもそのときは訪れるかもしれない。ずっとそれを待ってる。でももしそれがずっと先なのなら、ずっとこの先生きてそれでも待ってるのなら、待っていられるんだろうか。はたして。

自分には、多くの人がもっているものを持つことができないといった諦めが最初からあるように思う。その最初とはまるで運命づけられてるみたいに決定事項のように身近にかんじられるものだ。だからそれは覆せない。自分たちは多様性のための存在としてあるんじゃないかとかって誰かがいった。まあそれはそうかもと思えるが、しかしわたしはどんな多様性の一部も担えていないよな?と思うとやはりただのゴミなんだなと思う。そのように即刻に自分を見捨ててしまう。そういったことを子供の頃から当然のようにしてきている。それは信念であり、救いで絶望だ。

小学生の頃、自分はだめな子どもなんだなと自認したイメージがいつからかずっと頭に浮かんでいる。そう思わずにはいられなかった、それは避けられなかった自分を鏡で写し見たイメージ。親への申し訳なさと、それを受け入れるための筋道。

みんなが持てるものをわたしも持ちたい、もってみたいと恥ずかしながらも憧れ、願うのだが、それはすぐにも待っても叶わない。だからいつも自分を納得させるために、自分にはなにもないのだから誰かやみんなと同じようになんて無理なんだから諦めなきゃいけない、それを認めなきゃいけない、それらをちゃんと自覚した人でなきゃいけない、何かを望んだってそれは自分にはかなわない、ありえない、またそのことで傷ついてはならない、平然としていないといけない、だって当然のことなんだから。

このような思考のもとで私というひとは出来ている。なんて無様なんだろうとおもいながら、それをそのまま放ってきたのもまた私だ。

それでも悲しくて寂しくなって、嘆くのだ。