液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

引き続き仕事はひまだった。なので14時すぎくらいには終わりになり、一度家へ帰ってもいいけどと思うがやめておく。池袋でタワレコに行きオウガの新譜を買い、パルコでヘアピンを買い、ドトールで本を読んだりする。西口のルミネのとこのドトールはみっちり席が埋まっており、みんなスマホやパソコンに魂もってかれてるみたいにがっちり席に固定している感じだったので諦めて地上に出た方の店舗へ行く。ドトールはどちらの店舗も別部屋で喫煙席を設けているが、禁煙席というか店内全体が入った時からとてもタバコ臭くて台無しだなと思う。モスに行けば良かったかもと思いつつドトールのかぼちゃタルトが食べたかった。でもなんか昔のより美味しくないと思ってしまう。がっかり。そうだ、と思ってapple musicでモーサムを聞こうと検索したらいつの間にかシングルもアルバムもきれいにすべて入っていて驚いた。シロップが入ったのと同じようなタイミングだったんだろうか。前はなかったはずだから。最近全然聞くことはなかったのもあり、ああこんな順序で出していたっけ、これはこのアルバムの曲なのか、など予習なんだか復讐なんだかわからない。財布に現金がないのでATMでおろす。先月のカード払いが妙に高くなっていたので急に財布の紐が固くなろうとしている。お金は全然ないな。しかし私はレコードプレーヤーを買おうとしている。

 

渋谷のクアトロへ。初めて見るtetoとモーサムの対バン。名古屋クアトロの30周年記念にかませたツアー企画、クアトロだけが頼りの綱というかなんというか。よかったねえと思うし、よかったなあとも思う。モーサムは解散や活動休止という形をとらず、活動はないにしてもそのような形をとらないでいることはバンドとしてやり切ってしまうとか終わってしまうための名目がないからなのではないかと思う。わかんないけど、とりあえずモーサムにはそうゆう指向性がないような気がする。意見の相違やぶつかりがあったとしても、それでもこのバンドでやり切ってしまうなんてないんじゃないかと想像している。とはいえ年をとり、年月を経ていく中でずっと同じにやり続けられるものでもない。そうゆう中でバンドの外からこうやって声をかけてくれる人たちがいるというのは、ありがたいとしか言いようがない。ライブ中に観客からありがとうありがとうといった声が漏れ出ていたけど、私としてはメンバーにというより周辺のスタッフの方々にありがとうと言いたいような気持ちだ。そしてそれに応える気になってくれたモーサムの3人には何だろうな、そんな素直にありがとうなんて言いたくないんだけどなみたいな気持ちかも。自分にとってはモーサムってそんなたやすくないというか。なんと言ったらいいか。いつまでも遠くにいてほしいといったものがあるだろう。

始まりはベースの音がモコモコしていてあれー?と思うも3曲めくらいでアンプだか何かをつなぐ線を変えるか何かしたようで、それからはそうコレ!というタケイさんの音になったのでよかった。またドラムの音もどうも小さい気がしてあれー?と思ったのだが途中から上がったようでちょうど良くなった。イサムさんのドラムの音はこうだ、というかモーサムの音のバランスはこうだ、というのが自分の中にあるんだなあ。私は主にドラムはスネアとシンバルで聞いてるので(バスドラはほとんど聞いてないんじゃないかと思う)どれくらい音の粒が広がって響いて、というところで判断しているのかなと思う。また珍しくももがギターの入りでミスったというか、おそらくチューニングを変えなきゃいけないのをそのままやってしまったんだろうなという動作があった。そういやももは変則チューニングだった、と急にそこで思い出したりして、でも昔見てた頃はそれはそれでそのことを知らないまま見ていたわけで、だけど今ではそうやって見ることが出来るという違い。私にとってモーサムはずっと無敵にかっこよくいてほしいんだろうなあ。だからそう無くなってしまう事がとてもこわいとも思ってしまう。まあでもそんな勝手な思いも裏切られ、どことも知れない山や川を平気で高速で転がり落ちてくることを楽しむようなそんなバンドなんだよなあと思う。

 

終演後、久しぶりに会うrさんたちと計5人でご飯を食べた。自分的にはrさんに個人的にこんなことがあってと話したいことなどあったけどまあライブの後だしそんなのは無理かなと思っていたらやっぱり無理だった。まあいいんだけど、話しても別にしょうもないんだけど、そうだ最初からそんなもんだ、と自分を納得させるためには結局価値を下げていくしか無くなってしまう。しかしライブ後すぐにいろんな人の感想を聞いたり、話し合うことは面白いものなんだなと思う。それはこないだのROVOの時に思ったからその延長なんだけど。今はSNSで簡単にいろんな人の感想をすくうことができるけど、でも書かれるものと喋られること、口に出されることはやはり違うのだ。自分が見てて面白いとか、おかしいとか、何かしらの違和感を感じたりしたことでも、不意に忘れていることもあるものだが、それを他の人が口にしてることでそうそうそれそれ!となるのは自分の記憶だけではまかなえないものを補給してもらえてありがたい。また自分とは全然違う場所から見ていた人には自分に見えていなかったものがある。そして自分のいた場所から見えていたものがある。そうゆうものを補い合い、提供しあうといったものはひとりではやりきれない作業だなと感じる。ふくらみが全然違ってくる。ひとりで見にいってる時は、帰り道、記憶を辿るのに焦りと不安とがどこかある。落として目印にしていったパンくずをどうにかこうにか全部拾い集めたいけど無理がある。絶対見逃している。それが結構悔しく、ひとりでできる限界を感じる。それをSNSが補完してくれるのはあるけど、でも人と話すとSNSに書かれないものが絶対的にあるんだとわかってしまう。みんながみんな何かを書いているわけではない。それはもはやその時の直接性がないと絶対に拾えないものだ。それはその時聞かないとしまわれてしまう。など思う。

しかしみんな音楽に詳しいのでそうゆうの聞いてるとほんと私なんも知らないんだなと思って、音楽のことも全然好きじゃないんだなと確認してしまう。特にフェスの話になると私はそうゆう場所にどうも全然惹かれなくなっているし、そうゆう場所に行こうとするメンタルが皆無だなと思うと、ものすごい隔絶を感じてしまうのだった。私は永遠に延々と自分のからっぽさについて刃を突き立てていなければならないのかと思うとあほらしい。私は欲張りたいのか?けれど、自分も逆の立場になっていることが時にはあるのだろう。でもそうゆう時のことはきっと無視して考えているんだろうな。自分の価値の低さについて負い目を持つことはあまり良くないのでしない方がいいと思うけれど、何に対しても結局同じように考えている自分に気がついてしまい、そうしてそのことに悲しくなって、世の中のまっとうな幸せを見てはその純粋さが自分には全くないのだと合点がいき、納得してしまう。この作業はなんなんだ。