朝、ああ急に景気が良くなってたりするのかも、なんていう願望をもって目覚めていた。なんていう目覚めだ、と思う。そんなことを思って願って目覚めるなんてどうかしてる。ああもっとラクに生きられたらなあ。でもそんなのありえないんだろうな。むしろこの先ずっともっと悪いことが起きて起きてまた起きて、その都度それらにどう立ち合えるのかっていうことをもっとよく考えておかねばならないのだろうなと思う。えー、なんだろうそれ。

sくんからは結局なんも連絡がない。ほーんとなんか、なんなんだろうって感じ。いつも私が勝手に心配しているだけだな。結局彼にとって私は友達でもないんだろうか、といつもよく思わされる。だから本当は私のことが嫌いでいやがらせでもされてるわけ?と思ったりする。直接そんなことを言ったことがあるような気もする。こっちが傷つくことを平然と言ってくるから。ああ本当に嫌い、そうゆうところすごくむかつく、もうやさしくなんかしない、と今まで何度思ったことかと思うとアホらしいから、もうどうでもいいって思おう。男性にありがちなずるさですごくいやだなーと思うのは、さも相手のことを傷つけないよう、ついでに自分も傷つかないよう言葉を、態度をきれいごとに落とし込んでちゃんと紳士的ふるまいをしてますかのように見せてくるところだ。見せるのは悪くないけど、中身がともなってなくてずっこけてしまうのだった。もちろん露骨に怒れ、というわけじゃないけどここでポーカーフェイス決めてるそぶりの意味が全然わからん、と思ってしまう。こっちは自分でも恥ずかしい思いで汚さも自己中さも出してるのに、それに対峙してくるような素直さも誠実さも感じられない男はほんと思い出してもむかむかするな。でもまあだいたい私のいうことは人に伝わらないようだから相手の問題ではないのかもしれない。みんなそうゆうものなのか、ならそれも仕方がない。でも人間どうしで向き合ったら傷つかないわけなんてないのに、傷つけ合う気もないような人はそれだけでつまらないって気がしてしらけちゃう。って書いててそうなるとsくんと付き合いが続いてるのは傷つけられ私もきっとなんかしら傷つけてるだろうからそれ故なのかと言えることになってしまう、というか色々ひっくり返る、う、それは、どうなんだろう、ううんんんんんん。なんだかよくわからんくらいが適度というものなのかもしれない。しかし、つい、大学4回の卒業間際の頃のことがふいに思い出され、何度思い出してもそれはやっぱり悲しいことだったなあと思う。O先生の部屋のカレンダーに書いてあったの、たまたま先生の部屋で先生と喋ってて、たまたま目についた、だって他になにも書いてないし。あの頃から私は信頼されていない。それはまあ事実だ。

 

雨がいつの間にか雪になっていた。ひたすら刺繍をしている。自分がウイルスにかかって死ぬことよりも、ウイルスにおびえる人々、空気、社会によって自分の稼ぎがなくなり今後の生活が不透明になることに怯えている。あさいさんがアリオでマスクしないで咳をしてたら人々ににらまれたと言っていたので、それって女性専用車両に男性が乗り込んでしまった時に向けられる視線と似てません?という話をした。私もうずいぶん乗ってないけど、通勤で女性専用車に乗ってたときはあの空気って独特だなあと思っていて、間違って乗ってしまった男性に対して、かわいそうに、という同情心もあれば、いやそんなの関係ない間違えたお前が悪いのだ、みたいな厳しい審判の目が同時にあるようなそんな感じがした。今思うと、あれは、ここでなら許されるという鬱憤晴らしの軽蔑のまなざしなんではなかろうか、というような気がしたりして。

ずっと日記を書いていて、もともと人の目にふれる可能性がある前提で書いていて、それでも例えば親にいつか見られたら、ということはよく考えることだった。それはもしノートで書いてても同じ可能性があって、むしろノートなどの方が見られる可能性が大きいのではないかと思えたしそれならネットの方が安全のような気がするとは思っていた。実家では1台のパソコンを家族で共有していたし、リビングにあるし、それで私が日記をいつ書いてたかと言えば両親が共働きだったこと、高校を辞めたことでパソコンで日記を書くのが可能だったんだなとわかる。でもそれでもパソコンをよく触っていたし、普通にブックマークに自分の日記を入れてたし、いつどこでどうばれてもおかしくないのではと思っていた。でもそれでもその時はその時、それでいいやと思っていた。しょせん日記だから。だからやっぱり最初から日記っていうのは人に見られる可能性をはらんでるアイテムなんだよなあと思う。日記はそれが前提で、それだから日記と言えるんだろうなって。書いて、そのあとすぐに燃やすとかすれば違うだろうけど。故人の日記が展示とかで見開きで置かれてるのなんか見ると、なかなかちょっと残虐な行為の気がしてしまうと同時にかなり興味深く興奮気味に見てしまうところがある。日記は誰かに見られる可能性が含まれながらもそれでもやっぱり誰かに向けて書かれてるわけではない(多くは多分そう)というのが、その、ノートという実物で残っているものを見たときの興奮につながるような気がする。秘密、というほどでもないだろうけど、秘められたものというような神秘さをまとうかもしれない。真実や本音があるのではという期待もされるかもしれないけど、まあそれは実際資料として生きることもあれば全然そんなことない場合も実際だろう。私が日記という形式にこだわるのは、自分が誰だかわからない誰かにむけて書いた文章なんて気持ち悪すぎると思ってしまう心理があると思う。だから日記しか書けないんだな。

うつうつとした気持ちで1日がおわる。もう働きたくない。