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午前中、BS-TBSで植松聖に関するドキュメンタリー番組がやるようだからと見た。福岡のテレビ局の制作なのだろうか、実際には近年のヘイトデモを含み見た番組内容だった。番組を作ったディレクターの方は自閉症のある息子さんがいるとのことで、植松聖に面会をしていくなかでもあなたの息子は生まれてすぐに安楽死させるべきだったというようなことさえ言われたという。障害のある人たちを殺すことで自分は良い人間になれたと思うか?といった質問に対して、そうですね、すこしは良い人間になれたと思います、といった返答をしたという、それが植松聖の本音に近いものなのではないか、という示しを出していたが、それは自己肯定のために殺したのだととることができる。というか、発言の全てがそのように、自分は生きてて良い側の、社会に役に立つ人間として認められるための言い訳としているように受け取れる。心失者とは障害のあるひとのことだけでなく、認知症になった老人のことさえも含むのだという発言、つまりなんらかの線引きをすることによって誰しもが植松聖の言う心失者として生きているべきでない人間とみなされる可能性を含んでいるのだったということ。福岡や川崎で行われていたヘイトスピーチの映像はひどいものだった。また沖縄の人たちの東京でのデモにも中国人は帰れなどという暴言があびせられたり関東大震災のときの朝鮮人虐殺の追悼式典に対してもあんなすぐそばでそれを否定する会が行われているなんて、初めて知ったが、ひどすぎてひどすぎて、なぜそのようなことをする人たちがいるのか、理解しがたいものがある。それらは田中功起さんの可傷的な歴史のなかでたどり見たものと重なるが、でもそれはこのようにドキュメンタリーという番組として作られたものとはまったく違うものだということがよくわかる。どちらもそれぞれにあるが、アートのうえで思考し、想像するということは触れられるものの多様さ、豊富さがあるように思う。その筋みちのことを思い出した。

お昼にごぼう蒸し鶏のサラダ、あさりと焼きすぎた油揚げとパクチーと梅干しとみょうがのそうめんを作った。知らない人がつくった知らない曲ばかりのプレイリストをかけながら料理をする。もともと料理は頭がすっきりするみたいな作用があるものだと思うけど音楽をかけながら料理するのはより、わずらわしいじぶんというのが消えてって指示と指示される体だけで動いてる感じの機能的なものになっていくようだと思う。

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これといって生きてる実感がない。毎日、明るくなって目が覚めたらカーテンをあけ、日が暮れてきたらカーテンをしめ、眠くなってきたら寝る。そのあいだの時間はわずかなものでとても短い。でも、そのあいだにどこかへ出かけていたころがあるという。ライブハウスは大丈夫なんだろうか、大丈夫じゃないんだろうか。いま、どこでも音楽が演奏されてないということが信じがたい。 振動しない無数のスピーカー。踏まれない床。明滅しない照明。開かれない分厚いドア。注がれないカップ。初めてひとりでライブハウスに行ったのはもう18年前になるか。知らない人たちが集まってひとつの空間を埋めていること、自分が誰かと問われることもなくそこにいられること、ステージがあって観客があることで成立してる景色に私は心奪われた。その頃はだからうしろで見るのが好きだった。それを見ては心安らかになっていた。自分が手放したものへの罪悪感をうめてくれた、得られるものを与えてくれた。ライブハウスのあの空間が、まさか、飛沫がとびかい人をウイルスに感染させる空間としてわかりやすく具体的にイメージされる場所として浮かび上がるなんて、あの空間が悪さとしてイメージされなきゃいけなくなるなんて、考えたこともなかった。あらゆる人と人との近さ、密閉されてこそ外と遮断された世界、汗や体温がまじって頭上に蒸しあがる空気、そうゆうものはたしかにライブハウスにあり、またそうゆうものがない音楽が演奏される場もあった。音楽を聴くために人は集まっていた。