今日は休み。ずっと買おうかどうしようか、サイズをどうしようかで悩んでいるCD収納棚についてまたずっと検討するも結局決めきれず。あほくさ。午後、駅の方へ買い物へ行った。2週間ぶりくらいに行ったかも。なんというか、普段というか、以前と変わらないほどの人出だったのでちょっと驚いた。こんなもんなのか、と。NHKで各都市が前と比べてどんだけ人手が減ったかを出していて、東京でも7割近く減ったという数字を出しているがれば渋谷とか東京駅とかなのか?結局そうゆうターミナル駅なところは平日は会社に出勤する人が減り、商業施設もあいてないから休日も人出は減るんだろうなって思うけど商店街があるような駅は特別減ったりはしていないんだな、それは、これは、いいのか?と思わずにはいられないけど、そのジャッジは誰がどのようにするのか?誰もこれを知らないなんてことはないよねえ?と思うのに、でもみんなこんなものか、ってことで個人の都合がやすやすと優先されてはいる。本来それで良かったはずなのに、この状況にこれでいいのか?という疑問を挟むようになっている自分がいる、というのもそれはそれでどきりとするものがないこともない、なんていうか、剥離しているおかしさ。正しさが実際にはよくわからないのだ。厳格に守られるべき、あるべき姿なんてものは結局ないじゃないか、この自粛要請という世界では。自粛をどれくらい自分に課すことができるのか、負うことができるのか、を試されているようだ。そしてそれを互いに監視せよと。でもその呪縛すらひどく曖昧で適当で、それはなんだかんだ感染者数がひたすら順調に増えていくわけでもなく爆発的に増えていくわけでもなくなんとなく増えたり減ったりしてるのを眺めているとどれくらいの身構えで居たらいいのか適切なのかがよくわからない宙ぶらりんでいることが許されているからなのだろうか。

斉藤道雄「手話を生きる」を読み終える。手話という言語について書かれた本ではあるがそこに限られた話ではないとも十分に読める。とても刺激的で、明快。

BS1で録画しといた音楽家のギレルモガリンドと写真家のリチャードミズラックのドキュメンタリー番組を見る。これはNHKの制作らしい。アメリカとメキシコの国境の壁にまつわる二人のドキュメンタリーなんだと思っていたが、決してふたりだけに迫ったものではなく、多層的な視点で描いていてとても面白かった。特にアリゾナ州の砂漠地帯、一番近い街まで120km、そこでなくなる越境者が多いということ、残されていった洋服や荷物からは生き延びるためであったろう様々なものが見つかり、遺体の見つかった場所には十字架が建てられていく。リチャードミズラックが新しく始めるシリーズは、壁に落書きされた鉤十字をとらえたもの。

石原洋さんのブログにformulaについて刺激的なことが書いてあった。4/12に書かれている、それをいま聴き始めて読めたことは良いタイミングに思える。異様な浮遊できれいな言葉を喋り、書く人だなと思う。formulaには2枚組の案があり、それは演奏をのぞいた雑踏と電子音を加えたものだけが収録される予定だったという。そしてそれこそがformulaの正体だとも言う。そしてそれをどう聞いてもらう構想だったかについて書かれている。

当初のアイデアとしてはこの「version 1.0」をPCに取り込み購入者の好きな音楽、つまりポップス、歌謡曲、ノイズ、ジャズ、クラッシック、民族音楽なんでもいいのだがこの雑踏と好みの音量でミックスしてもらうとその音楽自体、またはそれを愛好する購入者自身と世界との距離、過去の関係性がぼんやり浮かび上がってくる仕組みだった。

驚きを隠せない。なぜそれは実現しなかった、それはわからないがしかしここまで考えているというコンセプチュアルさが息苦しくも甘美でやばい。いきすぎている。だが、そこへいきたいとも思う。石原さんの視点や感覚の距離の取り方は提示されている。それをどう受け取ろうか。

version 1.0 | Rest Stay Relationship

寝る前に頭痛。最近つづく。