なかなかその日に日記を書いて終えるというのができない。今日も晴れてて布団に敷いてた羊毛シートを少し干してしまい完全に部屋がスッキリした感じで爽快。スッキリとはこうゆうことかーって、今まで特になんとも思ってなかったけどごちゃついてたんだなーとわかる。狭い部屋でもちょっとしたことでさらっと変わる。午後、母と父が車できて、なぜか白米と竹の子ご飯を小分けにしたのやら紅茶大容量やらおかずやらを持ってきてアイスコーヒーとエクレアを買ってきたというので部屋で一緒に食べた。1時間もいなかった。大した話はしていないが、心配されてるわけでもないところがいかにもこの親って感じだった。なのでこの親に話してもしょうがないって感じがある。でもそれでもこの人たちもいかにも子供が手を離れた親って感じになっていくんだなと思うと感慨深いようなそうゆうような気になった。わたしはそこにいるのかどうかよくわからなくて、ただの飾りのようなものの気もする。もう子供であったわたしは失われていると思える。実際そうだ、わたしはもう小さな子供という体では、肉体ではない。わたし自身にとってのわたしじゃなくて、親にとっての私だ。いつか子供であった日もあるのだろう。でもそれはもう遠く、永遠に戻っては来ないのだということが、やけに鮮やかにはっきりと感じられる。しかし白米の小分けは自分で十分ストックあるんですけど?なんでないと思われてるのか?など謎をふっかけられる。でもそうゆうこと聞くの、言うのはもう面倒だからなんにも言わないのだった。ふたりが帰るタイミングで区役所の支所へ行くことにする。自転車をこぐのが少し気持ちよい。それなりに混んでいて思ったより時間がかかる。マスクをしていない女性が隣に座ってきたので、なぜどうゆう理由で意志でしていないだろうかとやはり気になってしまう。マスク顔でない人、久しぶりに見た。それからスーパーで買い物。もちろんそれなりに混んでいる。あんず棒を買う。今日も特になにもしていないがあっという間に終わっていく。もともと大したことはしていなかったのだろうと思える。働くなんて、大したことしてなかった。働いた、疲れたといえばそれだけで何かやってやったと思ってたかもしれないけど、いやいやそんなことはなかったのか。特になにもしていない、ということの心地よさはないこともないかなって思った。何かをすることが生きることなのか?生きてることだったのか?でも確かにそうだったんだ。自分というものがずいぶん溶けていってるような感覚がなんとなくある。とけてまわりの空気と融合していくようだ。あれもう今日がいつなんだかよくわからなくなっていく。暑いのでパジャマを夏物にする。

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