今日はROVOのMDTFesの日だったが、今年は中止になり、その代わりチケット制で昨年の映像が配信されることになった。本来のタイムスケジュールにあわせて、18時20分ころから始まった。始まる直前になって、去年ってどんな感じだったっけかな?特筆すべきトピックはなにかあったっけかな?と思うと、そうだ、去年は演奏がかなり完成度高かったんだ、そう自分のなかで記憶したんだったということを思い出した。それだけですぐさまわくわくしはじめた。窓の向こうの空を何度も確認しながら見た。それはなんという行為なのか名前もなく、どういう意味あいということなのかもよく言えない。この過去の、去年の映像を最終的に500人以上の人たちとリアルタイムに共有しているというのはいったいなんなんだろうな?と急にはじめての行いにうろたえる気もした。加えて当時そこにいた人たちが鑑賞者の中にも多数含まれているであろうことを考えると、私もそうだが、集団で過去を追体験するこの行いは今までまったく経験したこともないことなのか、もしくはこれは何かにたとえられるものなのか、何か似た行いとして定義づけられるのか、なんていうようなことをわざわざ思っていた。わからないが、しかし、これはなにか特殊で特別な神事の儀式のようでもある気がした。だって、なぜ、去年の映像をわざわざ今年に流す会を催すのか?そんなことをする必要はあるのか?そう思われても当然じゃないか、と思う。でもこれは必要とされる時間と場なのだった。それはROVOが毎年ずっと、1年に1度の日として17年続けてきた行いであり、18年目があったはずであり、それはコロナ禍という特殊な事情の状況下にあったとしても何か違う形でもって行われなければならないほどの磁場を持ってしまっていると考えることができる。それはなにかを納める行為のような、鎮める行為のような、これまでの祝祭とこれからの祝祭をつなぐために、何もしない、中止という決定事項をたらすだけてはおさめきれないゆえの儀式としての行為がオンラインパーティーと名付けられてまで今回催された時空間だったような、そんな感じはする。ROVOはもともと、太陽の塔という名前だった。今から考えると宗教的なにおいがよく似合う。毎年の野音におけるパフォーマンスは日没前後の時間を計算したうえで成立させていると思うが、自分たちのおかれる場の自然に身をゆだねることとまたそれを利用することの浸透しあう様は特別な崇高さを感じさせる効果として抜群の効果を発している。音楽という形はより人々を陶酔させるわけだし。そうだから今年も何かをしなければならなかったのだし、私たちも参加しなければならなかったのだと思える。思えてしまっている時点で私たちは生贄なのかもしれない。なんてこんなことを考えてようやくなんだか納得できてきた。

72時間まで映像は見れるということで、繰り返し見ている。今現在のROVOをこんなふうに見れるというのは、なんという贅沢なんだろうと思う。同時にyoutubeで00年代のライブ映像を見るとみんな若くてうわあああとなぜかこっちが照れる。私が初めて見たのは02年なんだし知らないわけじゃないんだけど、まあいつも後ろの方で見てたしそんなに姿形にまでは興味なかったのかもしれない。でも野音では絶対後ろの方で見るのが定番になってるのは、今はほかの屋内でやるときはたいてい前の方で見るけど、最初の頃に後ろで見てたことの感覚を忘れられない、忘れないってことの影響があるようにも思う。遠く遠い後ろにまで届いてくるROVOの演奏が好きだ。野音では後方で聞くことこそ贅沢なのだ、と私には思える。あの円形の野外空間で、音が響きわたり、暗闇のなか松明のもとで描かれた太古の壁画が走り出すような風景を見るようだと思う。1年に1度の日没どきに行われる行い、まあほんとそれだけで十分意味深だ。勝井さんが毎年必ず言っている「また来年」という言葉が、去年の時点では来年はオリンピックがあるから野音は使えないのでは?という話が知れ渡ってるなかで例年と違ったニュアンスをふくんだ発言になっていたわけだが、それが今年のコロナ禍においてはより一層の重い言葉として機能することになっているのは、偶然というよりは最初からそうゆう可能性をもっている言葉だったのだ、それを含みうる言葉だったのだ、と思う。また来年、はそもそも毎年の積み重ねと切り離せない言葉だった。それは簡単じゃないこと、だからこそ約束しようといったような。だからそれはより重い意味を課せられても耐えうるものになるのだということを感じさせられた。勝井さんのそのひとことに、メンバーやスタッフの方々の思い、観客の思いがのせられてきただろうと思う。それが忘れられることなく、また集まることができたらいい。今日は風がよく吹いていた。野音はきっと気持ちよかっただろうな。この日のこの空のもとでROVOのライブはあったはずであり、けれどなかった。

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