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今日は休み。ブルーのブラウスに刺しゅうをすすめる。お昼に冷凍して4ヶ月くらいたつ魚を焼いて塩揉みしたきゅうりとみょうがと合わせた混ぜご飯にする。ゴボウのサラダも作るが、やっぱり蒸し鶏があったほうがおいしい気がする。よくも飽きずにごはんを作っている。単にそうゆう時間や余力があるのだ。今までは平日のほうがご飯を作る気になれて、休日はなんもしたくない、ラクしたいって感じだったけど今はなんも思わずただ作っている。特別なことでもなく、ただ毎日の中の動作のひとつ。食べることってなんなんだろうって感じはしてくる。食べることそのものというのか、食べるものを選ぶということだったり、食べることができるものの有り余るほどの数の多さだったり、自分はなぜそれを食べるのかということがクリアになってくるんだろうなとは思う。自分が食べたいと思うものは本当に食べたいものなのかどうか?食べたいと思うものを食べる必要があるのかどうか?疑問になってくる。ポテチは生理前の衝動のために食べられるに過ぎない存在としてかわいそうであり代替のきかないものである。

アマゾンプライムで「オープニング・ナイト」を見た。なんとなくウォッチリストに入れてあったのだが、個人で書評や映画評をされてるサイトを見てそこに参考映画として挙げられていてそれで内容を知って見てみようと思った。舞台女優が出待ちをしていた少女にサインを求められて応えたのち、女優が車で去った直後というかすぐうしろで少女は事故で車にはねられる。女優はその少女の幻影に悩まされる、みたいな簡単な紹介だったと思う。物語の冒頭でそれらはすぐに描かれて、そこから何気にはまりこんで見れず集中力が続かない。途中で寝てしまった。でもどうにか見ようとがんばって見た。後半はわりとするっといった。しかし、あれこの感じ似た感じの何かを私は見たことがあるような、と思っていたが、そうだ、バードマン だ。単純に芝居の舞台、ステージとその裏、楽屋から日常までがひとつづきになっているような作りということにおいてだけど、なんかそれってすごいギョッとするんだよなあ。自分がもともと芝居を見るような習慣もないせいかもしれないし、またファンとして楽屋口に詰めかける等なタイプでもないし、ただ、ああこんな世界で生きている人がいるんだなって感じが自分とは異様に離れて感じるのかもしれない。マリッジ・ストーリーでも夫婦が舞台制作者、女優であるという設定にも同じように感じていた気がするし。しかしジョン・カサヴェテス監督の作品は初めて見たがなにか異様な雰囲気が支配していることはわかった。これまでに築かれ続いてきた時間に亀裂が入る音をみんな聞いたはずなのに、それは理解されず共有されない。誰もそんなの知ったこっちゃない、と聞いたけれど聞き終えたものとして過去になっていくのに対して現実を脅かしてくるほどの存在として少女を見出してしまった女優の精神の乱れがつらく、目が離せない。この女優を演じたジーナ・ローランズが妻で、その女優の夫役として出てたのがジョン・カサヴェテスなのか。この人すごくいい雰囲気だなーと思っていたが、すごいもんだな。うーん、見慣れない、知らない類の映画は自分にとって情報量が多すぎて言語化させていくことがとても難しい。でも面白かった。他の作品も見てみたい。78年の作品。

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