しばらく書いていなかった。そんでまたこんな風に書いたりする。その間に何があったかな。渋谷に空気人形のティーチ・インに行き是枝監督とARATAの話を聞いた。考えてみると、映画監督の人の話を生で聞く機会はこれまで得たことがなかったかも。音楽はライブが生とすればあるし、アートのせかいはアーティストトークがよくあるし、まあ舞台も生だが、映画でこのような機会に今までも行きたいとはおもいつつもなかったなあ。年齢や時間を感じる。いろいろと理解の助けになる話がえられたとこもあるが、監督が最後に答えあわせのようなことはしたくなかった、作品は世に出したら見た人それぞれの解釈をしてほしいというようなことをおっしゃり、そうゆう発言は作品作りをする人からはよく聞けることではあるが、生でそれを聞くことの実感、意味は大きい。
同じ日に「アンナと過ごした四日間」も見た。主人公の滑稽な素直な懸命さと冷たく硬い感触のいりまじる闇の世界が魅力的。
それから猫のちびが子どもを二匹生んだ。二匹生んで二匹とも生きている。夏前にも出産したが、初産だったのもあってか一匹で生まれた子はすぐに死んでしまった。陣痛がはじまったらしきころからずっと横にいたのだが、まだしばらくうまれないだろと少し寝て、30分後くらいに目覚めて本を読んでいた数分後、チーチーチーチーという声がした。ちびの鼻の音かと一瞬思ったが、なんと一匹がすでに生まれていた。胎盤も食べ終えていた。おおお、びっくり。二匹目はするっとでてきた。ちょっと泣ける。生後一週間が過ぎ、ようやく二匹とも目があいてきた。父親はわからない。外に出た時に妊娠したらしいから。どんな色柄なんだろうとおもっていたら、二匹ともちびそっくり。ちびは今の雑種の一番多い色柄らしいし、それが強いのだろう。見分けがつきにくいのもあって、名前はひとまず一号と二号。まあ私が勝手に呼んでるだけ。こんなん。


猫が産まれる前には維新派も見に行った。今まで見た中でいちばん物語的なつながりをつかみにくい作品だった。そして私はいつもなぜか維新派のはじまりを見ると涙が出そうにさせられる。ッパーと光が発する世界、その光のもとに動く白塗り。これははじめて見たときからその最初の光の世界に地球の裏側にでも連れて行かれたような、くらっとした頭のおいつかなさを覚えるのだけど、これがどうして維新派でだけ起こるのかはなかなかなぞだ。暗闇に光が現れるというのは舞台でも映画でも、まあライヴでもあるといえるだろうが、維新派のときにかんじるそれはまるで原始的なかんじの熱さをおぼえるとこがある。やっぱり維新派だからなんだろうか。維新派のはじまりはいつもいいな。まあだいだいいつも中盤であたまがぼんやりするわけだが…。今回はその中盤あたりは男女別パートがつづいたのが印象的。そのなかでもいかにも女性らしいてろっとした薄い素材のワンピースの衣装が維新派には意外に思えたとこがある。現在の維新派はあきらかに女性の方が数が多いが、白塗りで同じような衣装をしていることによって、男女の区別に関しての意識が薄らぐとこがあるし、たとえ服装で男女の違いが明確に読みとれははしても少年少女で捉えるところが強いしそこに現れる大人の役というのは少年少女の位置を描き出すためのあえての存在という感じがする。だからなるべく背丈をそろえたであろう、スタイル整った系の人たちで構成されたパートにはちょっとなれない感じを覚えた。あれ維新派にもこうゆう人たちいたんだな…とか思ってしまった。低めの女性で構成される部分はいつも衣装などによって違うけど、性の区別があいまいに感じられそこから解き放されてるところがあったり、もしくはおかしみが感じられ性がふっとぶような気もしたり、維新派ではやはり役者が記号として現れてくるとこがとてもおもしろいと思うとこなんだけど、今作「ろじ式」ではそれよか男女の区別みたいなとこに私はひっかかってしまって気になってしまって、なぜかなんとなくもんもんとした。ワンピースの女性は最後までワンピースの衣装だったのも気になった。それにしてもやっぱり維新派の関西弁言葉はおもしろいおもしろい。可笑シテタマランはひじょうに楽しい。ひとり、いい体型してて特徴をつかめる女性がいるのだが、この人はやっぱりすぐわかったし、表情や動きも群れとして動いていてもその人が感じられる。見ていていいなあとにやにやしてしまう。そして照明による効果がきいてるなあと思ったことを覚えてる。明暗がくっきり描かれているとことか、ただ単純なそんことだけでなく、奥行きを持った舞台を生かすような維新派らしい動きの世界を照明がより効果的におもしろく見せている感じがした。また、もちろん役者手作りという様々な動物の骨の標本がはいった木枠600箱の美術セットはすっごくよかった。そこらの魚屋で魚買ってきて肉とってそれを標本にしたとか、豚の頭まるごともらってきてそれも標本化させたとか、さすがなんでもやるなあ。舞台上に積み上げられたその箱が場面転換ごとに形を変え、使い方を変え、空間を次々に変容させ生みだしていく様は見ごたえがあった。維新派の群れの動きと調和するような。そんで来年の次回作、3部作の3部作目はなんと岡山の犬島に決まっていたのか。うお、これは…。まあまた野外で見れるならたのしみだ。
去年の琵琶湖での「呼吸機会」の映像だが、なんと雨降っている公演ではないか。これもこれですごいなー。


そして二年半ぶりに美容院で髪の毛を切ってもらった。しかし、かわらず短い。美容院とか行くのは小学生のころから苦手だったけど、最近はより嫌いになっていて、もはや恐れの気分のまん延でめんどくさくなっていたため、母の行くとこについていくというありさまに。適度に乗り越え、首がこる。
ついでににきびが大ぼっぱつしたのでいつもの皮膚科に行くと、見たとたんに「このにきびは親の遺伝だから。30過ぎまで治らないよ」とダックワーズ的にザクっといわれる。相変わらずなんでも言ってくれる。遺伝てはじめて聞いたが。両親とも昔からぜんぜんにきびなど見えないが。それでも反論のしようもない。え、そうなんですかと半信半疑。遺伝といのは大抵わるいと思えるものしかこないんだろか。野菜大好きで、果物は毎朝食べ、化粧水はたぷたぷ使い、夜更かしもせず、玄米食べ、毎日お風呂に入り、もちろん石鹸はもこもこにして、短い髪の毛が顔にかかることもなく、ビタミンB2B6を取り、便秘しないよう腹筋もスクワットもやっているのに、それでも世の中の不均衡の溝はおおきいのかしら。あんまり意味のあること言ってないが。そして治らない指に関してはまたしても「1か月何もしないで入院してたらすぐ治るよ」というはなから本気じゃない発言をされる。はじめてこの病院に来たころ、大学4回のおわるころは、この先生のビシシーとした一方的なぐりぐり地面に埋められるような物言いにはすっかりこころがぐしゃ折れ、うつむいて帰ったものだが(思えばこの時すでによわきだった)、最近は慣れてきた。
はじめて西武新宿線に乗った。高田馬場から。高田馬場東西線乗るのにしか使ったことがないような。電車とは全然関係ないけど、時にこのような機械で大学行ったのも役に立ってるかもしれないと思えるとき、ほっとする。私はときどき大学のことを否定しなきゃいられなくなる。色々な思い出のある四年間を真っ向からすべて否定することがある。私の選択のすべてを否定しはじめたとき、一番取り返しのつかない大きな出来事として立ちはだかっているそれを、17歳の時の自分の選択を今になっても改めて否定して後悔して、結局実行した自分をめった刺しにしたくなる。過去は変えられず、選択した自分に責任を持たなければならない。今になっても私には17歳の時の経験が鮮やかに生きてしまっているらしい。それをふりきれない自分がばかばかしくてさらにひと串加えたくなる。まあでも自分でも思ってしまっているのだ。大学生の時に出会えたものの存在を。だから、それを自分で否定することに走ってしまうことになるとき、とても悲しくなる。あほなのだが。本当は否定したくないことを、否定することで自分を成り立たせようとする私はずるくてきたないなあ。なんにも解決できてないから、そうゆうことになっちゃうのかなあ。まあでも冷静でいられるときは経てすごして身についてきてしまったものはどうしようもなく事実で逃れられない自分であって、それは受け止めておく方がいいだろうし、それがいい方に作用した時はへんくつくつつな私でもたしょうは喜んだりしても許されるかなと、まああまり口に出さず自信持たずに思ったりをする。