引越して、不動産屋へ直接家賃を払いにいくことになった。不動産屋はすぐ近いし、振込手数料もかからない。現金をそれだけ持ち歩くということが変な感じがするなんて、それが変な気もする。昼過ぎにaちゃんと秋葉原で待ち合わせた。会うのは3月の3連休の前の週の日曜以来ではないかと思う。4ヶ月ぶりくらいか。その日はよく晴れていて、でも思っていたよりも寒くて、代々木公園は人がたくさんいた。まだマスクをする人としない人が普通に混ざり合っていた。その次の週の3連休はマスクをしない人の方がなぜか増えていたのもよく覚えてる。晴れていた。私がもってるロイホの15%オフ券が今月までなのと、ファミレスの方が距離感や消毒などが規律的になされているからとロイホで会うことにした。そんな理由で会う場所を決めることがあるなんてなあ。雨が降ったり止んだりしていた。会話って、どうやってなされるものなんだろう。何かを喋る、聞く、聞いて喋る、聞く、頭がぐりんぐりんに回転しているようだ。何を言って言わないのか。何を言えて言えないのか。5時間くらいいたらしい。店内は一時客席が埋まっていた気もするけど、そのあとはものすごく騒がしくなることもなくすぅっと引けていった気がする。ソファ席の背面にはプラダンで仕切りがつけられていた。なんていうか、これらにどれだけの防御力があるんだろうなって気がしないでもないけど、私たちの飛沫のやりとり、行き来はこれらすぐ倒れてしまうような軽くてやわらかいプラスチックの板によってどうにか守られていることになっている。aちゃんの話を聞いていると、私が思ってる以上に世の中には母親とはこうあるべし、こうじゃなきゃおかしい、こうであることが良い母親だ、という意見を持つ人々に出会い、押しつけられてくるらしい。なんというか、ほとんどの人なんじゃないか?ってくらい。それが、世の中か?世間一般か?おそろしすぎて、リアルに感じられてしまった。性別年齢問わずに、むしろ同世代の人たちほど強固にそれらを信仰しているようで、その意見の違いはかまわないんだけど、違う意見や考えの人を否定する言動はやめてくれよと思わざるをえない。なぜ母親にだけそんなに一律の決まり決まった像を押しつけられるんだろうか。なぜ、母親像をあなたたちが取り締まれると思っているんだろうか。なぜ、自分がイメージする良き母親でなければその人格を否定していいと思えるんだろうか。母親だけがなぜそんなにみんなの思い通りの姿にはりつけられなければならないのか。多くの人が共有する価値観があること自体はかまわないけど、その価値観の確かさを疑わないことのあやうさ、そして違うからダメなんだと排除したり正そうとする正義感のあやうさ、でもそんなものは多くの人には関係がなく通り過ぎてしまうものなんだろうか。ショックだったのは、大学時代の友人に相談をしたら勝手に他の友人にも話が伝えられていた、友人は良かれと思って相談相手を増やしたということだった。aちゃんはそれを決して嫌だと思ったとかは言っておらずこんなことを友人はしてくれたという話し方だったが、でも私はそれってアウティングみたいなものなのでは?と思って内心では引いてしまった。だってそれはすごくプライベートで、本人がこの人にならと思って話す内容じゃないか?私にはそう思える、しかしそう思えなかったという人もいるということか?そうだろうそうなんだろう、しかし、そのようにして起こる違いに驚愕してしまう。つまりは私も逆の立場になりうるのだろう。それくらい人は違う判断をする。わたしは急に顔の筋肉が硬くなってしまった気がして、がんばって愛想笑いをつくろうとしてできない自分になっていた。無理して笑わなきゃという指令が出ていること自体エラーだ。そのことがaちゃんにバラやしないかとひやひやした。駅の改札での別れぎわ、どうしても言わずにいられなくって、あんまり沢山の人の話を聞きすぎるのも影響受けすぎちゃったりするから気をつけた方がいいと思う、といったことを伝えた。そうしたら、あ、そうなんだよね、だからほんとは…といったふうに話しはじめたので私は少しほっとした。そのまま改札前の柱の前で立ち話をした。自分が感じた違和感を口に出すか出さないか、その判断は正しいのかどうか迷ってしまう。言っても伝わらない可能性があるが、伝わる可能性もある。賭けだ。伝わらなくても仕方がないとも思う。そのうち伝わるかもしれないし、ずっと伝わらないかもしれない。伝わらない悲しさはしかしそのままにするしかない。ただ伝わるのなら、共有できるものがあるのなら、それはともに火を囲むような、風にその火を消されぬよう囲む行為として集まっていたいと思う。

帰りにヨドバシに寄ってネットで注文しておいたものを受け取り、ぎりぎり19時に帰宅。ドミューンの山本精一特集を見る。宇川さんがカメラの前に出てくることが叶わなかったのはすこし残念だった。でも冒頭に山本さんのベアーズでの無観客無配信ライブについての解釈が聞けてよかった。それは宇川さんならではだ。私はあの行為はふだんのままの山本さんの行為だと言えると思った。ただそれが環境がまったく変わってしまった状況下でどのような意味合いをもち、どう私たちが受け取れるのかという新しさ、挑戦みたいなものが生まれたと思う。あの日本当になにかをやったのかどうかはだからほとんどどうでもいい。わざわざそこにこだわる必要はなくて(それは山本さんのファンやってるとわかってくると私は思うんだが山本さんは常に無観客無配信ライブをやっているようなものだと考えられるから)あれが2020年の3月に発生したということがただ大事なことだと。そしてそれを発生させられたのは山本さんだから、そこがベアーズだったからなんだろうなと思う。そのことは2部の配信ライブをやる姿を見てはっきりと感じとれた。ただ私はあれを見て、bar issheeで演奏する山本さんとダブるというかbar issheeでやってる姿、演奏とそのまま同じじゃないかと思うと、これまで見てきたいくつもの機会が思い出されて、でもそれが失われてしまっていることに気付かされて、それがいつどう戻ってくるのかわからない不確かさに揺さぶられてしまった。でも、だからやっぱり山本さんはどこでどうやったって自分の興味探究実験として演奏することに変わりはないのだということが示されていた。それは東京、名古屋、京阪神の同時期の各土地のライブのレポ読んでたら共通項があることがわかったり、つながったり続いたりそこから変化していってることなどわかる、そんなんからしても気づけることだったが、見えなかった姿と見える姿、これまでに見ていた姿の距離であり層が自分の中で重ねられたことによって山本さんのありようを見ることができた気がする。ああでもあの音を生で聞けたならなあ、空間で体験できたならなあ、という想像にばかり気がいってしまうわけだった。配信においての聞くことは、表面的に聞いてるにすぎないと思ってしまう。そんなこと前なら思わなかったけど今は思ってしまう。それは代替ではなく別のことでしかない。直接に聞くことは代替されない。そう思うと配信なんかいやだとも思いはじめてる自分がいる。だってなんか違うしいやなんだもん。それが以前と変わってしまったことだとは思う。全否定したいわけじゃない、やるべき意義も見れる意義もあると思う面はある。でも自分がこれまでに見てきた人たちであればあるほどその差が厳しく鋭い。なんか話がどんどんスライドしてきたな。宇川さんが無観客無配信ライブをひとりひとりの想像力に届けたみたいな話してたのはすごくよくわかるし、よかった、そうゆう解釈をちゃんとしてくれるとほっとするな。あーでもそういえば、1部において山本さんの仕事ふりかえりで「なぞなぞ」をとりあげたときなんかにあった男性たちが男性たちだけで「やばい」というワードだけで盛り上がる、評価する、それがわかるオレたち、みたいな雰囲気は正直すごく苦手で嫌いなんだよなあと思った。女性でも言う人はいるし偏見になるのかもしれないが、でも私はエモいとかもあまりよくわからないし好きじゃない、そうゆう単純化されたワードだけで盛り上がるのはおよそ男性ノリ、ホモフォビアの景色に見えて仕方なくて、それはもともとヤバイを共有できずノレない女の自分は排除されてるような感じがするという学生時代の苦々しい思い出の延長としての体感でもあるが。実際私はなぞなぞをやばいとは思ってない、まっとうな事を歌ってるんだとしか当時から思ってない、それがあとになってみればすごいことなんだとわかったけど、ちゃんと語れる言葉を持ってるはずの人たちが、急にやばいという一言だけでやばいという評価をできるオレというところに行きついちゃうのが味気なくてしらける気もしてしまう。山本さんは謙遜などでなく率直になにもすごくない、と言う、その本人の誠実さの方を私は信頼する。