1週間ぶりに仕事。Aさんはある意味の私がこわくてたとえ仕事があっても連絡してこないんだろうなと予想していたが、実際やはりそんな感じだった。みんな、だれしも、仲良くなってゆけばみんな私をこわがるのだ。それは私の振る舞いがそう感じさせるようにしているのだから、そりゃあそうだとわかる。なのに私はそれで傷つくというのだから、馬鹿げている。馬鹿げていながらむなしい。反論もしない。子供の頃に怒りで睨む顔を見せると母からいつも繰り返しこわい顔と言われた。私はそれに傷ついていた。母にそのように言われることにとても悲しかった。疎外される存在。けれど私はそんなこと言わないで、とも言えない。ただただ子どもは言われたことを受け入れるのだ。そうか、私はこわい顔の、いやな、きらわれる、だめな子どもなのだと。否定する言葉の作用とはそのようなものだ。それらはどんどんどんどん衰えることを知らずに勢力を増した。否定されればされるほどその存在になることを自分に課した。言われた存在になることが自分が認められる術。私は可愛げのない、冷たい、人を睨みつけては威嚇する、わがままでヒステリックですぐに怒り泣き騒ぐそうゆう子ども。だから優しさなんか知らない。優しい人になんてならない。それは私ではない。親から貼られたレッテルを子どもは体現する。それがすべてだ。それが自分という存在になる。自分がこわがられ、嫌われるのは当然なのだとわかっている。けれどそれは自分の本意ではないのだと泣き叫びたい自分もがいる。それは矛盾と呼ぶか?私は本当はそうしたくない。けれどそれしかやり方を知らない。その哀しさに、もう諦めてしまっている。自分の愚かさに、もう訂正はない。自分のこの醜さに、死にたくなる。ただすべて燃やしたい。これを、この紙一枚で書き記し終えてしまえるようなこのうすぺらいズレ込んだ世界を、目の前からなくして、消してしまいたいのだ。もう何も見たくない、見えなければいい、この目が何も見たくない。