昼から池袋シネリーブルで「アメイジング・グレイス / アレサ・フランクリン」を見た。ルミネは結構混んでて、劇場前には小さい子供たちがわらわらいてるのでなにかと思ったらアンパンマンがやってるのか。こないだ有楽町でホン・サンスの「逃げた女」の予告でアンパンマン流れててこの映画の前にこの予告ってすごいなと思ったけどTCG系列での上映なんだな。ここはかなり時々にしか来ないけどトイレが印象的だからいつもなんかほっとする。大きい方のスクリーンで見たのは初めてか?アレサ・フランクリンのことをよく知らないまま見たわけだが、このタイミングでいくとどうしても「アメリカン・ユートピア」と比べてしまうものがあった。私はそもそもアメリカン・ユートピアに対して高い好意をもってはおらず、高い人たちがいるのを見るとああなんか違うんだなあというようなことは思っていた。まあそんだけ高評価されてるものに対して自分はあんまり、とか言うこと自体はばかられるような雰囲気さえある。アトロクでも宇多丸さんは時間オーバーで話し込んでたし。こないだ会ったkさんもインスタではsちゃんもとても良いといった風に言って、書いて、いた。私はそれなりに面白いと思ったし楽しんだけど、やはり元々デヴィッド・バーンに思い入れもないせいなのか?そこまで面白いとは思わなかったのだ。なんでみんなそんなにそこまで楽しんでいるのか、結構よくわからなくて戸惑いもあったりする。私の感想としてはただ眺めている感じがあり、特にステージが四角い空間としての切り取られ箱のような空間性が強く意識させられたし、そこにはっきりとした断絶があるような、立って見たいとまで思う気持ちや感情には全然ついていけないなと思うくらい。まあ、こういったものをのりのりで楽しめる、一体化できる人たちがいるよなとは思う。私はそうゆう状況を白々しく見る態度がまあ昔からちょっとあるよねって感じもする。時と場合次第でもちろんその立ち位置は移り変わるだろうけども。まあ私はそうやってみんなが盛り上がってるのにとけこめずに浮いちゃう人だよねわかるわかるとか思っていたわけだが。しかし、アレサ・フランクリンの教会での2日間のライブ映像というこの作品を見たらアメリカン・ユートピアで私が入り込めなかったのもそりゃそうだったんだと分かった気になってしまった。父が牧師で、子供の頃から教会で歌ってきたというアレサがレコーディングをスタジオではなくて教会でやると決めたという話なども劇中でジェームズ・クリーブランドというピアノ演奏もするが司会進行役もつとめる人があれこれ語ったりしているのだが、この話がいちいちちょっと面白い。観客を煽ったりするのも良い感じ。アレサの後ろには聖歌隊の人々と指揮の人がいてこの人たちの姿もカメラはよく捉えている。隊としてはひとつだけど、なんかみんな自由に体を揺らしたり揺らしてなかったり。決まりがない。指揮の人のノリがめちゃくちゃかっこいい。観客の動きも座って聞いてるけどなんか勢いで立ったりする、でも周りの雰囲気察してなのかわりとすぐ座ったりもする。楽しむ人も実際どうなのかよくわからん人もみんなそれぞれの好き好きに楽しんだり盛り上がったり興奮している。教会だからスポットライトもないし一つの空間が均一の明るい部屋で、そこで全方向にはっちゃかめっちゃかしている感じがちょっと異様な雰囲気でありながら、ここで実際何かがあったんだ起こったんだそれをこの人たちは共有しているんだということを感じさせられる。どっガーンとこの空間で起こっている喜び、外の世界はどうあろうとこの空間で起きている衝撃、ふるえに揺れている。ああ私はこういった世界が好きなんだと思うと、アメリカン・ユートピアは、こうではなかった。定められた空間を決められたふりつけ、踊りで満たしている不自由さというか、決まりきったものという安定した定型を見出すことができてしまう。コードレスなその技術、巧みなフォーメーション、とてもよくできているからにはどれだけの練習や合意や確認があったのだろうということが気になってしまっていた。どのようにしてこのライブは可能なのか、どのようして作られたのか、ということを気にし始めると、なんだか高みに立ち、持てる人たちなんだという冷めた思いさえ抱いてしまっていた。だからそれで投票しましょうと言われても、賛成だけど、もやっとしたものも持ってしまっていたのだ。そんな正論、言うの?って感じ。まあ自分がこうゆう感覚、感想に至るのは私の社会での立ち位置のあらわれなんだろうなあと思ったりする。なんでもそうか。アレサ・フランクリンの歌声というか歌うという態度、歌うその姿はもっとでかい音量で聞きたいと思いつつ胸がじりじりとしめあげられるものだった。ゴスペル曲の歌詞がストレートに高らかにフレンドリーに神をうたってて、それもまたすごいと思った。

映画見終えてから西口のモスバーガーでお昼。なんか今日の格好が、特に靴が気に入らなくて、今すぐ家帰って靴を履き替えてきたいくらい、しかしどの靴もしっくりこなくて結局白いスニーカー履いてきたわけだがこれじゃ全然ちがーう!という強迫観念に襲われ猪突猛進にネットで黒系のサンダルを探し始めたりした。こうゆうときの自分がきもくて怖い。目が疲れてきたので持ってた本を読んだりもする。東武で靴売り場を見て歩くもどれもピンとこない。17時になって新宿へ移動。ピットインで大友良英セッション 2DAYS Day1/大友良英(G,Turntables)松丸 契(As,Ss)芳垣安洋(Ds)のライブを見た。予約したのが6月5日くらいだが、名前呼ばれたのが結構後の方で、ほんとピットインの予約って初日で集中してるんだろうなあと常々思う。今は座席減らしてるのもあって、中に入ったら後方席しかなかった。今までずっとセンター列にしか座ったことがなかったのだが、初めて上手の斜めに椅子が並んでるとこに座ったが、ちょっと高さのある椅子だったこともありとても見やすかた。芳垣さんと大友さんが客席に対して完全に側面を向けてた(ステージ上でこの二人が正面向かい合っていた)こともあって芳垣さんは特にばっちり見えた。音も良い。これくらいの方が良いのか、と思う。先月の芳垣さんdaysでも共演していた3人だが、この大友さんがターンテーブルを使っての組み合わせというのは3月に渋谷でやったのが初で今日が2回目なのではないか。その時は体調悪くて行かなくて悔しかったがまたやるってことは良い手応えがあったんだろうなと思っていた。実際これはとてもおもしろいのではないかと思った。なんか、聞いたことのない音楽だと思った。わざわざそんなことを思ったというだけで不思議というか、異常だ。聞いたことのないということをどこでどう定義してるんだって話にもなるが、こんなことがありうるんだ、こんな風に成立しうるものがあるのか、それがそれでこれが音楽というものと一応認識はできるといった感じの方が近いだろうか。まあとにかく定義がゆるぎ、微かな振動がやまないままでいるこの自分のたより無さがそのまま語れることだろう。結局いつまでも探り探りで何かを言いたいけど言えないみたいなことしか書け無さそうなのでTwitterに投稿したのをそのまま書く。

昨晩、大友良英×松丸契×芳垣安洋を見た。先月にも3人が一緒に演奏してるのを見たけど曲はやらないのと大友さんがターンテーブルも演奏してるところで随分印象が違う。のか?芳垣さんはハイハットとシンバルに金物を付け加えていた。1部の始まりがとても印象的で、どれが誰の音なのか判別できないような

どの楽器から鳴っているのか、どのように出されているのかが遠目ながらステージを見ていても瞬間的にはわからなくて、あれ?と繰り返し彷徨った。似通った音なわけではないのだが音の由来がくらまされる。自分のなかで何かが揺らぎ、こうゆう事もありうるのだと受け入れる。脂汗が滲んでくるかのような

キンとした大友さんの音、芳垣さんはマレットを使い松丸さんはアルトサックスだっただろうか、はじまりがこのようにはじまることを私は喜びに感じる。んで途切れずに芳垣さんがスティック、松丸さんがソプラノに変えたのかなってところから変わっていく潮目を眺めた。その時間が大らかで。40分くらいで

1セットだったのだがもっと長い時間があったように感じられていた。なんだろうな、なんかよくわかんない、言えないけどこうゆう音楽?演奏?ははじめて見聞きするもののような、退屈のない、まるでよくできたもののように思えた。芳垣さんの粒の少ない垂直的な硬い音の連打の恐ろしさったらほんとやば